感想と雑記をごちゃまぜにして書いてみる実験をしたら長くなった。
これは半年くらい前に書いていたメモ ゲーム「Baba Is You」を2022年ぶりに起動してやったが回答を見ても分からなかった。分からなかった、というのは確かに納得できるけどどうやったら辿り着くのか分からなくて、ひらめきとか理詰めというより何千回かやったら奇跡的に見つける解法みたいに思える。これでまだレベルが低い方らしく、パズルってつきつめるとこうなるんだと思った。こういう類のものには分かりやすくてもいけないが解答の納得感も担保しなければならないジレンマがあるけれど、これは解答の納得感を捨てて試行錯誤の末の快感に全振りしているのかもしれない。解法は公開されていてもそこに至るまでの思考は公開されていないし、そもそも公開できるものではなくて、試行錯誤の末にだんだん分っていくプロセスは言葉にならないのかな。
妹が勉強の質問を電話してくることがこの1-2年増えて、断るのが苦手だから渋々対応している。これを書いているときも電話があった。会話への苦手意識から家庭教師なんてその極みだろうと避けていたのだけど、していたらこうだったのかなと思う。やっていて思うのは、試行錯誤して経験したあとだからこそいえることがあるが、それを経験していない人に教えても分かってもらえないよなということである。自分も学生の頃に「最終的に自分がどうしたいかだ」みたいなことを言われて「そんなこと言われても自分が本当に何がしたいかなんてわからね~」と思っていた。いろんなハックを試して、それを実行活用できるかは最終的に自分の意思次第なんだなと分かった。経験していない人に分かってもらうというジレンマを解消するには、ある程度の騙しが必要になってくるんだろうか? いささか主観的過ぎるのかな? ご褒美を設定するとか罰を与えるとか、仮の目標はそうして作られるのかもしれないけれど、そうすると顔色を窺うようになりそうでバランスが難しいのだと思う。
いまやってるTHREE THE HARDWERE8でもちょうど同じ話が出てきて面白かった。原口氏のすごさが曲以外の部分で垣間見えていて圧倒されつつもためになったり、シリーズ独特のゆるい空気もあってよい。
日本推理作家協会賞の候補になった短編を読むという暇潰しをたまにするのだけど、そのひとつ推理小説で荻原浩「お母様のロシアのスープ」を読んだ。双子の視点から母親との共同生活が綴られるが、舞台や時代が明かされていき、最後の1行で語り手は枯葉剤の被害を受けた結合双生児だと分かるというオチだった。タイトル含めたミスリードとして家を訪れる兵隊が用いられており、家を訪ねてきた兵隊がいつのまにか消え、夕飯に赤いロシアのスープが振る舞われるみたいな描写が中心にはなっている。でもオチで示される結合双生児は「だから何?」という気持ちにはなる。単に結合双生児の語り手であることを示されてビックリしたでしょ?となるだけで、偏見をつきつけるわけでもなく驚かせる要素にしかなっていない。もっと話の構造そのものに絡んだどんでん返しなら好きだけど、単に語り手がそうであることだけが驚き要素ならあんまりだと思った。世界推理短編傑作集とか読んだ方がいいのかしらん
そのときに星新一「午後の恐竜」も読んだ。ある朝いきなり恐竜や古代の植物が外に現れるが蜃気楼のように触れられないという現象が起こり、みんな困惑しつつ受け入れるもそれは地球という生命が見ていた走馬灯であり終わりが訪れるのであったというショートショート。言わずと知れた作品でどこかでネタバレを喰らってたので知ったまま読んだ。ショートショートはいかにワンアイデアを魅せるかだと思うけど、これは「地球が走馬灯を見る」という取り出せば突飛なアイデアなのに、物語にすることで幻想的な雰囲気を帯びて、その壮大さに納得させられる感じがあって流石にかっこいい。最後の子供のこれから未来が見えるのかなとか、語り手のこれから長い長い夜が来るんだよ、とかいい台詞だと思う。
自分にとっての中古cdや古本の醍醐味について。まだ知らないものだらけのなかで知っているものがあったときの運命感や快感のためにやっている節があり、「知っている」判定を増やすため触れる作品を増やすみたいな感じになっている。でも本当はそんな広げた網目からすら漏れるような知らんものに手を出すべきなのだろうな、というのは前からずっと思っている。全く知らないような外国のcdとか買ってみたい。本はわりとそういう知らない専門書とか買ってみようというハードルが低いのだけど、cdはなかなかその域に達していない。というのもまだそんなに集められていないのと、あとは買ったらパソコンに取り込まないとという強迫観念?みたいなのが関係していると思う。取り込んで無駄になったらどうしようみたいな……中古のcdだけでなく同人誌とかも見るように最近はしているけどゆるい手書きっぽい線、薄い色彩、あるいは独特な絵柄の白黒の落書みたいなのを求めてR18だの知らない作品の二次創作だのを見る時間が発生している。
だいたい同世代のフォロワーが多いから、4月からの労働に対して離れたり入れ込んだりを色々観測することがある。私はやらなくていいのならやらなくていいのだけど拒否反応が出るほどではないなという程度で学校やバイトに感じていたものとほぼ変わりがない。でもこれを延々と続けているビジョンは見えなくて、数年後、具体的には30以上になったら住む場所とかガラッと変えてみたい気持ちはある。でもそのころにはこの感覚も鈍麻してずるずると続けてるのかなあ というまあ人並な感想のまま過ごしている。
広島は尾道市を歩くと古本屋は多いのだけれど新品の本を扱っている店はほぼない。唯一あるのが「紙片」というお店である。個人がセレクトした本が並んでいてそれも特徴的な選書なのだけれど、たまに行って本を買うことがある。これまでに買ったのが工藤直子『ともだちは海のにおい』と伊藤亜紗『手の倫理』だった。前者はブログやSNSで知っていて、おそらく海が側にある街だから置いてあるのだと思いつつ手に取った。小学1年生でも読めるような平仮名混じりの児童文学だけど、飾っておきたくなる。内容は詩と連作の物語からなっている。最初と最後に置かれた詩「海のはじまり」「おわりのない海」が寂しさを孕んでいてよい。詩は「海の哲学」もよかった。物語においてもいいなと思える描写が度々登場する。海そのもののように年齢問わず受け止めてくれるような言葉ばかりで、これからも海を見る度に思い出すようである。
ふるような星から、青いひかりがこぼれてくる。そのひかりに、涼しく染まって、くじらといるかは、レールのような波をたてて、ならんで泳いでいく。
「ちょうちょの船」より
すべては溶けて海になるばかり
「おわりのない海」より
『手の倫理』は『私は命の縷々々々々々』で参考文献としてあがっていたので知っていた。200pくらいで字も大きく内容もシンプルなものだけれど、「触れる」という言葉や行為を改めて見つめることで、それと遠いところに自分はいるなあと思い知らされるようだった。1本の棒を2人で持つだけでも感情が伝わり合うという話も面白かった。こういう知っていたものの見え方が変わるのが醍醐味だと思う。これくらいの難易度の本をもっと読んでみたい。
「さわる」は一方的、「ふれる」は双方向的であるということを色んな例や側面から検討する本とまとめることができるだろう。同時期にSAMONJI「GO-MA-N-E-TSU」をよく聴いていたけれど、(スマホの)ゲームは画面にさわるけれど、その中にいる人にはふれていたりするなと歌詞を反芻しながら思った。
ここはロバートのこれを思い出した。
本屋に行きたければ市の外に出るほかない。そうしてほかの市に続くような国道沿いにはチェーン店が多くみられる。そのひとつのジョイフルで朝まで過ごした。3冊同人誌などを読んだ。Quick Japan SPECIAL『オモコロチャンネル完全読本』はオモコロチャンネルのファンブック。小学校のときにドラえもんの解説本とか読んでたけど、あれのワクワク感を思い出した。
個々人のインタビューが一番興味深かった。永田→やっている側が飽きるとよくないという話は分かる。今大切にしている美学も摩耗してなくなるという話もなんとなくそうなんだろうという気がして怖い。原宿→自らが扮するキャラクター含めて常に驚いていたい、個人に着目したい、変化の中にいたいと思いつつyoutubeという大きなシステムに乗っているという葛藤は興味深い。ラディカルな人なのだと思った。加藤→一歩引いた部外者みたいなつかみどころのなさがずっとあって怖い。ARuFa→面白く見せることへの職人気質はやはり尊敬する。恐山→柄じゃないしうまくやれてるとは思っていない、オモコロ自体がうまくいきすぎていて怖いという危機感を抱いているという話よかった。わかる。(以上敬称略)
ファンブックつながりでさよならポニーテール『黒猫の箱』を読んだ。音楽ユニット「さよならポニーテール」の総合プロデューサー的な立ち位置であるクロネコ氏による日記本。読む前からそうとはなんとなく思っていたけどクロネコ氏は普通に私の両親と同じくらいの年齢のようだった。妻子を持ち人生のイベントがありつつ、芸術系の人間として絶えず新しい作品に触れ続けたり、老害になりたくないと内省したりアップデートを欠かしていない点が人生の記述では印象に残った。そうなりたいもの……。創作について触れている部分は全部良く、私自身創作との付き合い方が分からなくなったら折り返し読みたい本だと思えた。トレンドは循環するから同じところに止まっていればいい、など好きなことを貫きつつ長く続けるというスタンスは共感できるものだ。あと35歳でさよポ二始めたというのは意外というか希望をもらえる話である。ポップ・ミュージックの教科書でありたいという思いも良い。
古今東西のポップ・ミュージックのメソッドや知識を自分たちの曲を通して楽しく伝えていく。さよポニの曲を全て聴けば、それはそのままポップ・ミュージックの歴史を体験したことになる。そんなグループになれたら良いな。
クロネコ『黒猫の箱』p32,33
音楽だと最近は「RIPSLIME 熱帯夜」の動画が投稿されていた。リップシンクしたりでmvを再現するのってやはり楽しいよねと思う。私も中学校のときとか星野源の曲でよくやっていたけれど、みんなハマる時期があるものなのかな あれはカラオケとも違う快感があって、手軽に主人公気分や作品を作り上げた気分になれていた。今でいう(というか当時もバリバリあったけど)youtuberごっこみたいなものだと思う。海外だと「不可思議のカルテ」や「もってけ!セーラーふく」のmv再現もあって、万国共通なのを実感する。でもこれらは複数人でやってるのがミソで、ひとりでやっていた自分には見えてなかった景色があるんだろう。誰かいっしょにやりませんか?
リップシンクだと最近は空耳についても考えた。2017年くらいに初めてニコニコ動画へ触れた自分でも、まずうたプリの空耳が好きだった。ボカロでは空耳のコメントが赤字で出たりしていた。今もなお空耳が擦られているのを見るとすごいなと思う。散々言われてるだろうけど曲を解釈する遊びとして、空耳もみんな楽しめるコンテンツ力が高いんだろう。
少し飛んだけどファミレスではおかだきりん『おかだきりん作品集 窓の外』も読んだ。漫画の短編集。もともとイラストが好きで気になっていたので漫画も気になっていたところ、総集編が出ていたのを知り買って読んだ。あとがきにもあるように夢、魔法、幽霊あたりが登場する話が多い。それらは作品のなかでは願いが具現化した存在として扱われており、その成立過程に人間味を感じられるみたいな構造になっていると思った。人の思いが形になるという点と分厚い同人誌という体裁には共通点を感じて、しんみりしたので紙で買ってよかった。夢、魔法、幽霊というのは形を持たない。とりわけ頻出する魔法は願いの具現化として描かれて、ただ起こった結果しか存在しないので、何が言いたいかというと「みんな魔法使いだったり魔法使いじゃかったりするかも」というような日常と紙一重のものとしてファンタジーが存在する感じがよかった。
個々の作品だと「いつかコンビニで晩餐を」は同じことを何回もしたことがあるのでみんなそうなんだと嬉しかった。最初の方の作品は突飛すぎてあまり腑に落ちないみたいなところが、だんだん突飛でも上手い突飛になっていくような感覚がある。「マイ・ゴースト・ポルダーガイスト」は作品集の中でも結構好きだ。夢の中の自分という設定と、版画みたいな濃淡はっきりしたタッチで色んな構図が試されている作風がかみあっていて気持ちいい。「ドミノを倒してそれから」はかわいすぎる。「おかだきりん短編集 夢のような味」もポルダーガイストの次に好きで、SFショートショートというジャンルと作風があってるなと思いました。「虎之街龍害対策部活動報告」はこれまでと異なり魔法とかが出てこないタイプの話なんだけど、チャイナロリがでてきたのでうれしい。「魔法使いのいない部屋」「アパートの上の亡霊たち」からは短編集を貫くテーマがでているように思った。作品集全体を通して願ったり叶ったりという因果に振り回される人たちの話だった。そして願いというのは身近なものである。日常の中の魔法みたいなモチーフが好きで、通学路でひとりで魔法の呪文とか考えていた子供だったのでよかった。
深夜のファミレスに初めて居座ったが、そのようなことをしているのは私だけだった。入れ替わり立ち代わりしていく人々はだいたいが二人組、部屋着のまま来て定食とか頼んでいる人たちもいて、近所で同棲してるのかなとか思ったりした。きっといつかふいに思い出す夜になったりするんだろうな、と羨ましくもあった。
国道を辿ると中心部にも辿り着く。広島駅は最近工事が進み、見違えるようなものになった。東京とタメが張れるなどというツイートを見て驕りすぎと思いつつ、すっかり変わったなと思ったのは事実である。デカデカとした広告はなくガラス張りになり、たくさんのテナントが入って最上階には映画館が作られいる。見物がてら映画館まで行って再上映されていた片渕須直『この世界の片隅に』(2016)を見た。こういうところのあるあるかもしれないが、ビルの中とは思えない広さで当然フロアを丸々使っているからそうなのだけど、エレベーターのドアが開くとぽっかりと空間があって驚いた。
もともと原作を中学校のころに読んで感銘を受けたのだけど映像は苦手だから見ていなかったし、今回も見るのが怖くて動悸がしていた。情けないが戦争を描いた映像をちゃんと見たのも小学校以来のことだ。コトリンゴ「悲しくてやりきれない」のカバーが最初に流れるのも、ああこれからすごい悲しくなるんだなと思ってその時点で泣いてしまった。戦争があっても景色や人は美しかったということが描かれていて、亡くなるまでの精一杯の人生に向き合うこともそれはつらいのだと分かった。終盤でさらりと家族の死を告げられるところとか本当に一瞬なのだけどやはりつらい。希望を感じさせる展開を添えて物語は閉じられるが、こうして映像で見ると後味としては暗かった。戦争がなかったことにはならないし、いなくなった人は戻らない。サントラだと「みぎてのうた」の歌詞はもともと原作の最後に添えられたモノローグだけど、この詩はとても好きです。この詩を手元に置きたくて原作を買ったまであった。
コトリンゴ氏のことを知ったのも、おそらくこの映画が公開されて話題になった中学生のころだった。去年に聴いたtoi toy toi「Chant」とかすごい好きだったので、いくつか聴いたけれど色んなアニメにいてすげーとなった。
ふつうの言葉を 頂くだけで
わたしは 生きてゆけるのですコトリンゴ「こんにちは、またあした」より
広島に来たフォロワーさんと会うことがあり平和記念公園などを少し歩いた。他人に案内するのが初めてで新鮮な感覚だった。見たことない人にとっての印象などが少し新鮮で、こうして少しでも伝えることで自分の責務をわずかに全うできたように思う。そのひとがこかむも氏の作品のファンだったので、積んでいたクロシオカレント等を読み返していた。
isitsutbustu-todoke.hatenablog.com
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ここらへんで感想は書いた。『ぬるめた』について。睡姦ほゆ(現在はこの名義ではないらしいがどう触れたらよいか分からないのでこう書く)が「高校生女子の集まりというよりパソコンゲーム男性の身内ディスコードVCの空気感が強くある」と先日ツイートで評していたが、わかる ボイチャには入ったことないのだけれどオタクのスペースの雰囲気というか…… だるい内輪ノリや学校サボり等が平然と横行している描写になぜか苛立ちを覚えている自分がいることに驚き、これは話してなんとなく確信できたのだけど、内輪に浸って外部との接触を断とうとする姿勢にハラハラしてしまうのだと思う。この話で登場するメインの4人は外部との接触を絶ち、互いに依存しているようである。そこには内輪の外の人を見下しているような危なさも感じるわけで、そこに私は心配をしてしまうのだろう。余計なお世話すぎる。
そこをつなぐのがくるみで、なんやかんや5巻ではクラスメイトと海に行ってはいる。でもその社交性のありがたみみたいなのを残りの3人は気づかないというか、疎ましく思っていそう、とすら思ってしまう。でも高校生ってそんなものか。ともあれ、一読したときと異なって歪さのある関係だということに気づいた。もちろん全員を非難するわけでもなくて、千明は勉強をクラスメイトに教えたり、咲菜はなんだかんだ気遣いのある様子が見られたり、詩雪は人付き合いへの自信のなさのわりにちゃんと話とかできてるし、そういう良さを感じる描写があるのが良い。「#41 オタク」の自分の好きなコンテンツの映画につきあってもらったことを謝罪したら、そういうのいいからと答える描写とかね
5巻では「#54 回転」「#56 爆発」あたりは題材からザ日常四コマギャグという感じで好きだった。「#50 墓参り」はギャグの勢いを維持しつつ死者はこちらに干渉できないという絶対的なルールが喜劇的に綴られているのが素晴らしい。そういう実験的な試みが好きなので「#53 副音声」のちょっと複雑な会話の交差も好き。「#58 下校」は話全体を通して学校→通学路→家がゆるやかに移ろっていくのが好きでした。
そうして筋書きからは離れて、絵がとてもうまい。横長のコマを分割して並行して話を進める手法もだし、扉絵もいちいちかわいくて良い。「#2 増殖」の扉絵、本人があげている落書き、クロシオカレントの扉絵みたいなかっこいいのも好きです。音madが好きなのも納得できる、というか音madを見てみたい。ゼルモニも楽しみです。
『クロシオカレント』について。雑誌『青騎士』に連載された非4コマだけれど、まずとても読みやすいという感想が一番に来た。コマが重なり合ったりとか情報量が多かったりするのに、読みやすいというのがどういうことかよく分からない。たとえば2巻「篠泉中学校文化祭準備」の校舎内を移動しながら話すくだりとか、あるいはそのあとの文化祭編とか、登場人物が建物の中を動き回るのに動きを映像で目で追っているような感覚があり、読みやすいけど相当気を遣って描かれているのだろうと思った。細かい分析とかはできなくてごめんなさい。ストーリーに関しては上に書いた感想にもあるように、それぞれのバックグラウンドを持った人が集まるのが学校というこういう学園群像劇で必ず感じるやつと、最終的に家族愛の話に帰着するんだという驚きがあった。
キャラクターとしては東堂院マナさんが好きだった。世界はよくなるはずだという祈り?に対して近頃興味があるのだけれど、いってしまえばメタ、「不可能を可能にする」というお嬢様キャラのベタな属性を、そのまま運命を操作する能力として持っているお嬢様キャラだろう。結局はその運をソシャゲにつぎこむという要素もありつつ、そこに存在しているだけで世界(物語)がよくなる、無条件によくなるという祈りの象徴としてのお嬢様キャラ、という扱い方にはなにか感動するものがあった。単行本しか読まないので『アビスマル』については全く分からないけれど楽しみではある。
アニメは「日々は過ぎれど飯うまし」を4話まで見たのと、「フードコートで、また明日。」を2話まで見て止まっている。ひびめしは大学を卒業したのが近い人間ほど見ていて苦しかったんじゃないかと思う。ふどあすはOPがおいしくるメロンパン(好きなバンド)だったので見たけれど、この曲の感じで踊るんだという驚きがあった。結局どれくらい踊られたんだろうか。ミニマルな空間での会話劇は好みな部類だけどそこまで刺さる感じにはなっていなくて、まあひびめしにしろ半分くらい見ないと何も分からないので見たい。あと逆張りで途中まで見てた京アニの『日常』を2話だけ見進めてみたらとてもよかった。やはりストーリーとかより細かい動きや演出で生きている感じが伝わるのが好きのかもしれないです。
上半期の振り返りで触れた最近よく聴いている曲で触れていなかったのだけど、TOMOO「LUCKY」はよく聴いている。「君がいてうれしい!」って良い感情で、空気公団「青い花」の歌い出し(君がいてよかった/それは一番思うこと)を思い出す。
あと花澤香菜『25』(アルバム)もよく聴いている。好きな・作りたい音楽のすべてを1枚のアルバムだけで説明するとしたら、の候補に入りそう。「flattery?」とか好きです。去年2024年の春M3でボカロPのコサメガ氏のブースにも行ったら売っているCDと共に自分が影響を受けた作品を展示するという試みをしていて、その中にもこのアルバムがあったのを覚えている。2/25が誕生日の彼女が25歳を迎えた記念に作られた作品で、私の年齢もこれに近づいているからってどうということもないけれど、そう思うと身近に思えるし、今年も100日を切っているらしい。月に2本は更新したいと思ってそのぎりぎりで達成できていないところだけれど、またこうしてまとめて書くことにならないようにはしたい。