nikki_20231028「無題」

 

ブログを始めたのは140文字ぎりぎりのツイートをよくするからという理由だが、前回の更新から日記を書く余裕がなく、最近はツイッターでは140字ぎりぎりのツイートばかりしてしまっていた。それらのツイートのアーカイブや補足も込めて書く。というかここに書くのはツイートの補足みたいなものがもともと多い。

 

あったこと

 

バンド「メランコリック写楽」のサブスクが配信された。2017年に解散したバンドがいまふたたび、というわけである。私は今年に存在を知り、プレミアのついたCDを買って聴いたりしていたのでとてもうれしい。cdについては過去の日記で書いた。とはいえまだcdは欲しい。私が持っているのは「月夜の超特急」のみだが、今回はじめてそれが解散前最後の作品だったことを知った。いまさらすぎる。全部で4つのEPを出していて、なんとなく最初の方のEPだと思っていたら違ったし、これが最後だったなら完成度の高さも納得できると再発見だった。

 

もうすっかり消えてしまったが、金木犀の全盛期が今年も来ていた。外に出ない日が数日続いたあと早朝にごみ出しに行くと冷たいなかに甘い香りが充満していてびっくりしたわけである。そういうアイスみたいで気持ち良かった。やはり好きな匂い。いっぽうでカメムシが大量発生している地域もあるみたいだが、あれがくさいというのはいまだによく分かっていない。

 

久しぶりに犬の糞を踏んだ。溝の浅い靴を履いていたので近くにあった公園の蛇口で流してことなきを得たが、ほんとうに久しぶりである。鳩の糞が落ちてくるのも長いこと経験していない。もちろんないに越したことはない。

 

アレクサが「声を認識してその人にあった内容を答えるようにできますが、しますか」という質問をしたので(話しかける人間は私ひとりしかいないよ)などと思いながら「いいえ」と答えた。あれには自分が二、三年ひとりでずっと話しかけてたことは分からない。与えられたプログラムに従って文を応答してるだけなんだなーということを改めて気づきなおした。

 

劇場版スタァライト考察合同誌『舞台創造科3年B組 卒業論文集』に寄稿した楽曲分析の文章がnoteにも投稿された。謙遜したい気持ちが強いのだけど抑えます。

note.com

 

 

大阪の此花区西九条にある「シカク」に行った。ZINEや同人誌だけを売っている本屋で、ジャンルとしても路上観察やエッセイ漫画、旅行記、レポートなどのニッチというのかどういえば良いのか分からないが、面白いものばかりで1時間くらい見て本を買った。目的はほかの人に紹介してもらったEidantoei「太子楼五體字類」だった。ある中華料理店の前にでているメニューの手書き文字についての本で、毎日お店の人が書いているその文字・デザインを記録したコレクション。良い本である。

 

booth.pm

 

 

「シカク」は普通の住宅街に突然あったので最初は見つけにくかった。「ラブ」という喫茶店の角を曲がったところ。こんな感じで、そもそも西九条という場所がなかなか歩くだけで面白い場所だった。並ぶ平屋、雑多に置かれた自転車・植木鉢、古いポスター、たくさんの喫茶店、路上で話し込む小学生たちなど。この日は旅という規模ではないけれど、目的地のために電車をその場で調べつつ知らん町を練り歩く、というのを久しぶりにした。疲れたけど楽しかった。

 

おジャ魔女どれみからロゴを借用しているらしき惣菜屋

 

茶店

 

考えたこと

 

ツイッターで言葉遊びとか単語のツイートをすることが多いが、そういう形式とか創作に落とし込まないと会話できない自分のコミュニケーションの特性そのままだと思う。外部からの要請や動機がない限り自分からは動かない、もっと身近にすると話しかけられない限り話さないという特性である。ツイッターは形式(ネタツイなどの構文)で会話したり、ハッシュタグとか空リプの呟く動機があふれている場所で、いわばずっと話しかけられている状態に等しい。だから自分は話してるみたいな感じである。つまりずっとあそこにいる限り、知らない人に自分から話しかけるような力は育たないのかもしれない。

 

東京事変が「閃光少女」を作ったときのエピソードとして、「亀田誠治が真冬の夕暮れ時に見かけたダウンジャケットを着てフードを被って天真爛漫に歩いている12、3歳の少女の現在と未来に思いを馳せ、「この子の将来って、誰に出会って、どういう人生を送るんだろう?」と心配になって忘れられなくなり、形に残すべく曲にした」というものがある。そんな情報がwikipediaにあったのをずっと覚えている。制服の上からジャンパーを羽織ってだべりながら帰る学生とか、そういうものをみたときのどうしようもない感じとか、ずっとそのままでいてくれみたいな気持ちがわたしにもある。そこから創作したくなることは多い。

 

自分の高校のころの文化祭では、軽音の演奏を観にいったら部活の先輩がたまたま近くのほうに立っていて、同じように見ていたのを覚えている。暗い室内でカラフルな光だけに照らされていた姿が大人びて見えていたからだ。そのとき舞台ではフレデリックの「オドループ」が演奏されていて、ギターソロがうまかった。「オドループ」ってこのころの軽音部ではわりとコピーしてるバンドが多かった気がする。もうすこし前だとKANA-BOON「ないものねだり」とか。四つ打ちのビートが基調でたぶんやりやすい曲たちだろう。文化祭だと「クドリャフカの順番」の文庫あとがきで米澤穂信が述べていた、文化祭のときに文芸部の子が廊下へ机を出して部誌を置いたまま、ずっとひとり座って本を読んでいた、という話が印象に残っている。

 

さかのぼって中学のとき。家庭科では幼稚園の見学に行って、自分たちで作ったパペットを使いながら教訓をふくめたオリジナルの劇を子供に披露した。子供たちは劇が終わったらレクリエーションをすると言われていて、自分たちが訪問する前にも既に他クラスの中学生が数回やっていたらしい。だから「わかったから早く遊ばせろ」という空気が流れていて、結局茶番な感じになり、負けたみたいな気持ちになったことがある。

 

そんな私は中学から高校くらいにかけて小説家になりたいみたいなことを考えていたので、未だに親戚のなかでは「将来小説家になりたいと思っている人」で通っていて「会うたびに本出すの楽しみにしてるよ」みたいな扱いを受けることになっている。文章を書くのは好きで小説を書くのは嫌いではないし、書きたいと思う話もある。でも2020年に初めて作曲をしてみて、別に文章である必然性もなく創作ができれば満足であることに気づいた。いまは自分でアルバムを作って出すことのほうへ遥かに興味があるようになってしまった。

 

ボカロだとニコ動で聴き始めたのはシャルル(バルーン)あたりだった。それ以前のボカロはいまでもあまり知らなくて、そこを補うように「VOCALOID 超BEST」をツタヤで借りて聴いていたのが懐かしい。東京テディベア(Neru)とか、ローリンガール(wowaka)とかをそこで知っていた。みんなニコ動でボカロを知ったと思っていたが、人と話しているとそういうコンピでボカロに触れた体験は意外と共通して持っていたりして、そうなんだとなることがある。

 

Nihonbashi Koukashita R Keikaku on Vimeo

 

ボカロに関して最近感じたのはじん「日本橋高架下R計画」についてだった。このMVがインターネットのアニメーションとして残した功績は大きいと聞く。「冷蔵庫で納豆のパックを包むフィルムが凹んでいて、扉を開いたときに上下に動く」というシーンがある。ここに見返していて目がいったのだけど、細部という感じがして良い。納豆のパック3個のうち1,2個を食べて余ったフィルムがたぷたぷしている――というのはおそらく納豆を食べたことある人ならだれしも見覚えがあることで、経験した人でないと描けないだろう。そしてそれをわざわざ描いている、という点にぐっとくる。

 

納豆関連の話。手元にないので孫引きの孫引きみたいになるのだけど、日本推理作家協会「ミステリーの書き方」(幻冬舎文庫)という本がある。前述したように作家になりたかったとき読んでいたもので、推理作家たちが執筆ノウハウについて述べた短いコラムがたくさんある。このなかで誰か忘れたが、ある作家が北村薫の納豆の描写について触れていたのを思い出す。納豆のパックか蓋だったかが床に落ちて、ねばねばした面が下になっていた、という描写。わけもなく生活が悲しい、というシーンだったと記憶しているのだけど、高架下R計画の納豆にも似たものを感じる。経験した人にしか書けない描写というものがある。しかしそれは別に専門的な知識ではない、一般的な生活の一部である。でも、思い出してつまみあげるようにして作品の一部とすることは難しく、そうして描くことで生まれるすごみがある。面白いことである。

 

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000186834


小説の要素としてキャラクターのネーミングというものがある。vtuber「ほんまひまわり」というネーミングは響きから朗らかさ・ぽかんとした印象が伝わるのでよいというツイートを最近したのだけど、そういう名前の感覚だと小学校のころに読んだ「黒魔女さんが通る!!」が大きい。クラスメイトは全員分の名前が設定されており、主人公が全員のプロフィール帳を集めるという設定で作られたキャラクター紹介本(「黒魔女さんが通る!!」キャラブック)まであった。筆跡から好きなものまで個性がしっかり書き分けられていてすごかったが、なんといってもネーミングである。名前と性格と外見がぴったり一致するようなものばかりで、たとえば「伊集院麗華」(町で一番大きな病院の院長の娘で病弱)とか「一路舞」(学級委員長)とか、「与那国治樹」(天才キャラ)とか、かなりわかりやすい。私のネーミングセンスの根っこにはこの本の感覚があるような気がする。

 

小から中学校のころに読んだ本。自分が群像劇的な要素が好きなのは小学校のころに恩田陸夜のピクニック」を読んだからだと思っていたけど、加えて近い時期に読んだ作品に朝井リョウ桐島、部活やめるってよ」があった。それの影響も大きそうだ、というのを最近思い出した。目立っていた子が部活をやめたという噂が全く関係なかったり関係している人たちから語られるのだけど、当時はあまり面白いと思えなかったのか、最後の十数ページだけ読んでないまま放置されている。最後にあったのは17歳の女子高生がセブンティーンアイスを食べるという話だ。これに影響されたのかされなかったのか、自分も17歳のうちに記念でセブンティーンアイスの自販機を探して食べた思い出がある。

 

「桐島」と近い時期にはじめて読んだ大人向けの小説だと、有川浩「植物図鑑」があった。ピクニックの次に読んだ気がする。野草に詳しい男の人が女の人の家に転がり込み、草を採っては調理して食べる恋愛小説で、のちに流行りの男性アイドルが登場する、よくある恋愛映画になっていた。読んだときは性描写もよく分からなかったのだけど、ホームセンターで自転車を買って河川敷をふたりで走り、野草を採りに行くシーンだけ唯一印象に残っている。そんな簡単に自転車って買えるんだ!というのが新鮮だった。

 

文庫書き下ろしでついていた短編小説も覚えていて、本筋とぜんぜん関係ない小学生の女の子が主人公であった。本編では男の人が途中で出て行ってしばらくいなくなるのだが、その期間にふらふらしていた彼と小学生の子が一瞬だけ遭遇する話である。そのやりとりでちょっとだけ主人公が前に進む、みたいな話でめちゃくちゃ泣いた気がする。いま思うとそういう話が好きすぎるのがわかる。どうやらシャニマスでもそういうのがあるらしいが、本筋と関係ない一般人の視点から主人公たちが綴られて、語り手が影響を受けるみたいな番外編が好きなんだと思う。自分もだれかにとってそうなってるのかなーとか、その総和が世界なんだなということに思いを馳せるのが好きなのは、ずっと変わっていない。