nikki_20231001「無題」

 

1001というのは線対称でうれしい。10月になったら買い出しに行く、それまでは我慢すると決めてコンビニでカップ麺を買ったり、カレールーを買って本当にひねりのないカレーを作ったりして食べている。結果、カレーを4食連続で食べたり、カップ麺と白米、味噌汁と白米、という簡素な育成ゲームみたいな食事ばかりここ2週間ほど食べていてあまり気分が芳しくない。結局買い出しに行った方が節約になるんだろうけど、難しいことが考えられない。

 

創作が(創作以外も)行き詰まる感じがあり、文フリで買ったりした短歌の本をひたすら読んだ。また感想は書くのだけど、阿波野巧也「百日百首」は1日に日記と歌をひとつずつ書く、というのを100日続けた記録の本であった。1月の京都文学フリマで買ってから積んでいた。このはてなブログにしてもそうだが人の日記はちまちま読んでいるのでこれも楽しく読んだし、本の体裁で他人の日記を読むのもはじめてで興味深かった。「ツイートした」「スペースに参加した」ということが日記に書かれていて面白かった。スペースはたしかに分かるのだけど、自分の場合ツイートが生活に溶け込んでいるので、行為として記録に残されているのを面白く思う。もちろん筆者は逐一ツイートしたら「ツイートした」と書いているのではなく、それなりに内容が大事で厚みのあったものについてそう書いているのだろうけど、自分の場合はそこまでのものになるとブログに書いてしまうし、なんというかツイッター観は人それぞれだよねと思えてよかった。

 

触発されてやっぱり来年から毎日日記を書くのを再開したい気持ちも湧いてきた。一日一文字とかでもいいから溜めずにこなす・ハードルを下げることと、あとは生活リズムが整いそうという直観である。日記の本で思い出したのだけどオモコロのマンスーンさんの本も買ったまま積んでいる。読みたい。

 

フェイクドキュメンタリー「Q」というyoutubeチャンネルがあり、2,3本の動画を見た。こわかった。基本ホラーに関しては苦手という立場であり、それはひとりで生活していることも関係していると思う。なんだかんだホラーが平気とか、よく見てる人に対して「それは同居人がいるからだろう」という気持ちはある(家族や同居人がいることがうらやましいとかではなく)。だからこういうのをみるときはコメント欄でしっかりネタバレを喰らっておくし、シークバーを動かしまくってジャンプスケアの衝撃を回避するし、めちゃくちゃ飛ばして概要を把握するのみになる。なので見たといえるかもあやしい。

 

ホラーと言っても怖さの種類は様々で、霊をはじめとする未知の存在、あるいは人間の怖い一面というサイコホラーもある。「Q」はそれらの怖さも内包しつつ、もっと別のレイヤーにある怖さも絡ませていると思った。古いテープの映像とか、乱れた映像のノイズ、似顔絵の質感などなど。これは子供が書いた絵を怖いと思うのと似ている。子供が書いた絵が恐怖の演出に使われることはたしかに多くて、でも子供の絵ってホラーの文脈がなくても単体でなんか怖いなと思う。自分だけですか? それは霊的なものでも、人間の悪でもない、全く別の居心地の悪さである。なんか太い線から漏れてるエネルギーみたいなのが関係してるのかな、それでいうとクレヨンしんちゃんのホラー回の不気味さも似ているものがある。怖い存在とは別に絵柄に怖さがあるというか。Backroomsやliminalspaceも近くて、妙に人気のない清潔な空間というのもまた怖い。こういうのを扱うのは「Q」に限らず最近のホラーの傾向かもしれないけど、よく見てないのでわからない。

 

nikki_20230926「無題」

 

もう9月が終わるらしく、信じられない。最近書くことをためて一気にまとめて更新しがちだったけど、短くても細かく更新する方向にしていきます。

 

自分としては珍しく滅多にしないことなのだけど、ふいに「映画けいおん!」を再生して朝まで見ていた。まえに駿河屋でdvdボックスがあったので買って手元に置いてあったので、ついていたパンフ的なものも読んだ。私は冬生まれ冬好きなので作中にずっとある冬の空気が恋しくてたまらなくなったり、ロンドンに行く話だけど、学校にいるパートも同じかそれ以上くらい長いなと思ったりした。

 

でもやっぱり、もう終わったにしても彼女たちが駆け抜けた三年間は確かにあって、日々のなにげないやり取りの積み重ねがそれを形成していて、細かな仕草からそれが描写されている、という尊さが見終わったあともしばらく続いていた。こう大切に感じている無垢さや一瞬の尊さについて、でもあなたはもうあの教室には戻れないし、無垢な時間を永遠に残すことなんてできないんだ、時間は過ぎて思い出は過去のものになる、こだわってたって結論は同じだし意味ないよ、と思う自分もやはりいる。この先何回もいろんな作品に触れて同じ気持ちになって、「そうだよね考えても意味ないよね」ってとこまで一直線にたどり着くようになるんだろうか。でもそれには慣れたくない。別にこれはなんにしても同じで、常に何かに慣れず、ずっとささくれた部分を残して簡単になにかが通り抜けられなくしておくべきなんだろう。とても難しいことではある。

 

けいおんからは離れて、いろんな作品の二次創作というものがある。私はあまり読まないのだけど、その時間軸は物語の前だったり、ありえたかもしれない物語のつづきであったり、あるいは別の世界だったりする。個人的にはそこで「本編にはこういう日もあったかもしれないよね」という作中の時間軸で描写されて、その日々に思いを馳せるのはとうれしい営みかもしれない、ということも考えた。すでに登場人物たちは卒業したり、大人になったり、あるいは誰かが死んでいる(これはあまり好きではない)けど、作品内ではこういうこともあったかもしれない、と考えるのは好きだ。それはけいおんを見て考えたこととも根っこの部分でつながっていると思う。

 

nikki_20230921「まずい飯のこと など」

 

最近は大阪文学フリマに行った。淀屋橋から中之島公園あたりの朝の空気が気持ちいいので、毎回会場までは必ず歩いて行くということをしていて、今回もそうした。開始からしばらくして入ると思いのほか人が多くてびっくりした。ちょっと詰まって立ち止まる、みたいなのは経験がなかったのでなんかすごかった。自分のいるときに入場者が過去最多的なアナウンスがなされていたので、まあそういうことらしい。

 

あとはインターネットで知り合った人に会った。インターネットや創作の話、この日記についての感想もいただけてうれしかったです。こうしてだらだら長文を書いたりはしているが、それでも書かないようにしているライン、言及したらダサい気がする自分のスタンスみたいなものはあって、誰かと会うとその話ばかりしている気がする。あまり積極的でないにもかかわらず、こういう人とお会いする機会が年に数回あり、申し訳ないような不思議な気持ちがある。考えてみると距離感がバグっているところがあるというか、私はけっこう躊躇いなく好意的な感情をインターネットの文面で出すところがあって、それがきっかけになることが多い気がする。となると自分自身の魅力というより、そういう立ち振る舞いの結果なんかなあとも思ってしまい複雑なのだけど、結局は現状維持していきたいなーという結論に、いろいろ話して思い至っていた。

 

自炊をしていると、たまにまずい飯を錬成することがある。基本的にレシピを拾って再現しているため失敗することはそんなにないのだけど、まれに勘で作ったり、食材が悪かったりして失敗することがある。先日できたのは前者の方で、醤油みりんあたりが不足していたので、めんつゆだけで適当にたまねぎと鶏肉を煮てご飯に乗せたらあまりおいしくなかった。味が薄い、甘すぎた。でもこれを思い出すのもちょっと時間がかかっているように、だいたい数日後にはその味を忘れてしまう。別にまずい飯に関わらず毎日の食事全般がそうかもしれない。覚えては忘れるまずい飯こそ生活の手触りだということを考えていた。もちろん度を越してまずい場合は覚えているのだけど、こういう食えなくもないがおいしくはないなーというラインのものは意外とすぐに忘れる。たぶんこのまずさは忘れるだろうと思いながら、でもこの味をかみしめることで生活の一部にまずい飯があることを実感する。そして明日にはまた違うものを食べて、だんだん忘れていく、でもなんかまずいものを食べたということだけ覚えている。という記憶の連続性に生活らしさがある気がして、うまく説明できないのだけどなんとなく好きだと思った。これは美味すぎる飯でもいえるのだけど、まずい飯のほうが生活感がある。

 

文章を書くとき、自分の中にあるものしか出ないのだなという実感がある。私は他人の何らかをみたときに「どうやったらそれが思いつくんだ」という観点から感動する場合が多いのだけど、自分の中から出てきたものである以上、自分の創作でそれを味わうには一度記憶喪失とかをしないと無理なんだろう、と思うとちょっと寂しい。ランダムに曲をつくってみる人がいたり、読み手に読む順番を任せる小説や詩があるのは、そういうところもあるんだろう。私がやっているいろは歌とかの言葉遊びもそうで、使える音の縛りを課すことで自分の想像の外側にある言葉の組み合わせがでてくる。さらによく考えると作詞とか短詩とか小説とか絵画とか、なんにしろ規定されたものの上である程度縛られることで、思いもよらないものが偶発的にうまれるところはありそうである。でもその縛りに対して出てくるものも、あくまで自分の中の気付かない何かであり、やっぱり自分でしかない。たとえばいろは歌を作っていて面白い単語の組み合わせが出来た!と思っても、なんとなく「自分の語彙ではあるな」という気持ちも一方では存在している。

 

isitsutbustu-todoke.hatenablog.com


これの追加

  • みから始まるものを持ってくる、という企画でミラノ風ドリアを持って来た芸人がいて「ミラノ風」はずるいだろと非難されていたこと

 

  • 世界仰天ニュースかベストハウス123で、手から薬を生み出せる人物が取り上げられていた(CMを見たこと)

 

  • アンビリバボーで身体が自分の意思に反して動く病を特集していた(次回予告を見たこと)

 

nikki_20230912「無題」

 

前回かいた文章がそれなりに恥ずかしい内容だったので早く次の更新をして流そう、埋もれさせよう、と思っていたのに間が空いたし、月間閲覧数が100を越えましたという通知も来て恥ずかしかった。

 

妹が生まれたときのことを思い出そうとすると、いちばんに浮かぶのは妹が生まれると告げられたときのことになる。むしろ、それしか覚えていない、ということについて考えていたときが最近あった。私には妹がおり、そのことは何回も述べたことがある。小学校低学年のときに生まれた、と書くとそれなりに年の差があることが分かるだろう。生まれた当日のことは覚えていない。学校に行っていたので立ち会うことはなかった。初対面のことも覚えていなくて、初めてあったのは病室か、それとも家かもわからない。ただ妹の存在を告げられたことは覚えている。学校から家に帰る。まず母が玄関にいておかえりと言う。これは毎回のことだった。そのあと「きょうお腹が痛くて病院にいったんだけど、お医者さんからお腹に赤ちゃんがいるって言われた」と話されたのをはっきりと覚えている。その時点では性別は分からなかったけど、いま思うとちゃんと病院でエコーを撮ってもらった日だったんだろう、とか私の帰宅と同時に告げるほど高揚していたのかな、とか思う。

 

それが印象に残っているのには、おもにふたつの理由があるだろう。ひとつは共感性羞恥で、子供にそういう嘘をついている状態、子供の誕生を告げる場面、というのをもし自分が親だったら、と想像するとなんとなくむずむずする感覚がある。「お腹が痛くて病院にいったら子供がいた」というのはもちろんありうる事象ではあるが、父と母のあいだではそのようなことはありえず、当然計画的に子供がいることは分かっていて、そのような伝え方をしたのだと思う。コウノトリが運んできた、というようなことになる。私はそういう共感性羞恥が強いという自覚があり、たとえば電車で居眠りしてるひとを見たりするのが苦手なのだけど、やんわり誤魔化していたのだな、と思い出すことはそれと似たようなむず痒さを呼び起こす。これが一つ目の理由にはなるが、あくまでそれは後付けで考えた理由にすぎない。これがふたつめの理由になるのだけど、当然衝撃的だったから、ということになるだろう。だろう、と書いたのは、そのときにどう思ったのかははっきりと覚えていないからだ。そこにネガティブな感情や、ポジティブな感情があったことも覚えていない。ただ鮮明に覚えていて、それは動揺したからだというのは間違いない。どちらかといえばネガティブだったのかもしれない。今もそうだがひとりでいることが好きだった自分にとって、きょうだいの存在は少し怖かったのかもしれない。でもこれは今の感覚から振り返ったものにすぎず、本当にどう思っていたのかは分からない。得体の知れない気持ちだったのだろう。

 

それから妹は生まれて大きなことはなく今に至っている。普通にそれなりに仲良くやっていて、他人とはいえどそこら辺を歩いているのをとっ捕まえて来た人とはぜんぜん距離感が違うし、かといって友達ともまた違い、ぬるりと現れてぬるりと自分の人生のなかで近いところにいて、けど深くは関わらない人がいるというのは不思議だ。みなさんの兄弟姉妹観はどんなものだろうか。ところで前に述べたようにひとりが好きでいることには変わりなくて、それは結婚や子供が産まれるということに対する忌避感の理由のひとつになっている。でも妹という他者が自分の人生に入ってきて、こうであるならば、自分に子供ができるのもそこまで毛嫌いするほどでもないのか?ということもちょっとだけ考えたりしていた。

 

nikki_20230902「性癖2」

 

isitsutbustu-todoke.hatenablog.com

 

前に性癖について書いたことがある。TSFというジャンルが好きであり「自分が性転換し、誰にも見られずにひとりで享楽に浸る」というシチュエーションが好みであるということ、他者との行為に持ち込んだり、他者に迷惑をかけたり、変身によって元の自我が消失するようなのは嫌ということだった。

 

この点で個人的に完璧といえる作品は少ないし、そもそもTSFの作品がそこまで多くはない。ゆえに上で述べた条件にそぐわなくても読むし、むしろそれによって自分の許容範囲が広がっている感覚がある。逆に条件にあっていても、絵柄などが合わないということもある。そんななかで作:狩野景、挿絵:天鬼とうり「目覚めると従姉妹を護る美少女剣士になっていた」(以下、「目覚めると」とする)という作品について述べたい。これから述べる作品やリンクはすべてR18です。

 

www.ktcom.jp

 

これはキルタイムコミュニケーションという出版社から刊行された作品であり、いわゆるエロラノベジュブナイルポルノと呼ばれているものになる。私にとってこの作品は完璧ではないものの、性的に好きでかなりお世話になっており、ずっとこれだけ読んでいたのだけど、思い立って似た系統のほかの作品を読んでみたところ、比較して特徴的な部分があると思ったので書く。

 

あらすじとしては「退魔師の分家筋に生まれた一条遼は、ある夜目覚めると身体が女になっていた!! さらに時を同じくして従妹の結女が、鬼への生け贄「鬼慰姫」として狙われ始める。遼は結女を守る「鬼斬姫」の役割を果たすため、身体が女体化したらしく!?」とある通り、主人公が女体化する話である。従姉妹が鬼に狙われるようになり、それを護る存在(鬼斬姫)として主人公が女体化する。従姉妹が鬼に狙われている間は女性のまま、という設定である。

 

まずこの作品のジャンルは曲がりなりにも小説であり、そして性転換ものということになる。この時点で似た作品は絞られる。もちろん性転換ものの小説はそれなりにあるのだけど、エロ目的のものとなると少ない。そして調べてみると分かるのだけれど、だいたいは他者との行為に持ち込まれたり、最終的に妊娠や快楽堕ちに繋がる(ようなタイトルや表紙である)。

 

この作品も例外ではない。妊娠はないが、快楽堕ちの手前に来るような描写はある。そして陵辱的な描写が多い。私が好みとする自慰行為の描写も、全5巻のうち1巻の冒頭数ページで終わってしまう。しかし、完全に堕ちきることはない。それはこれがあくまでバトルものとしての体裁を守っているからである。タイトル通り恋仲にある従姉妹を護るということが最終的な目標として設定されているので、バッドエンドにはならない。

 

これが文章の体裁をとって描かれていることも私に合うのだと思う。理由を考えると2点ほどあって、まず想像が自由になるということである。陵辱的な描写はあまり濃く想像しなければよかったり、自分で幅を持たせることができる。好きに読み飛ばして、お気に入りの場面だけ読むこともできる。これは漫画でも同様ではある。次に、女性としての感覚や意識、内面がより詳しく描かれるというところもある。

 

しかし、快楽堕ちもなく、陵辱的でもなく、小説の体裁をとって性転換を描いている作品は他にもいくつかある。たとえば愛内なの「生徒会長と体が入れ替わった俺はいろいろ諦めました」(ぷちぱら文庫Creative)という作品がある。これはタイトル通り恋人同士の主人公(辰人)と生徒会長(愛佳)が互いに入れ替わったり、そのままの状態を交互に体験して性行為するという作品である。この作品(というより形式)の問題として、どちらがどちらかを描くのが難しくなるというものがある。

 

www.parabook.co.jp

 

> 愛佳は男の欲望の強さというものを大きく感じていた。つい先日、男になったばかりの少女には理性と本能のせめぎ合いを抑えられるわけがなかったのだ。しかも幸か不幸か、力のある存在。女の子の体を無理やり押し倒すなんて簡単なことだった。

「辰人くん!」

「う、うわっ! やめろ、愛佳! 押さないでくれ!」
 目の前にあった机をどけた愛佳は一目散に辰人のところまで向かうと、彼の肩を掴んで強引に転ばせたのだ。
p100-101

 

ここは互いが入れ替わった状況での描写になる。それゆえ、読み手は「いまは入れ替わった状態である」ということを念頭に置いて読んでいくことを迫られる。「目の前にあった机をどけた愛佳は一目散に辰人のところまで向かうと、彼の肩を掴んで強引に転ばせたのだ。」の一文では、見た目は愛佳である辰人のことを「彼」と地の文で描写している。どう感じるかは分からないが、このような書き方が全編で行われているため、一度整理しないと分からない部分がたまにあった。

 

このような部分と比較して、「目覚めると」で採用されている方法はとても分かりやすい。女体化した主人公を描くときは地の文での名前が変わるのである。この作品の文体はいちおう三人称ということになるが、内面に踏み込んで書いているので三人称的一人称でもあると思う。主人公は一条遼(いちじょう りょう)なのだが、女体化した際は「一条はるか」と名乗って学校生活を送ることになる。これが三人称の地の文でも徹底されている。すなわち男のときは「遼」、女のときは「はるか」と書かれている。ほとんど「はるか」の状態で物語は進行するのだけど。これは単なる分かりやすさだと思っていたが、他の作品と比較するとこの書き方が巧妙だと分かる。

 

また、入れ替わりという現象はどうしても相互性が強調される。「異性の視点で自分の身体がどう見えてどう感じるか」、「元の性別に戻った際に、相手がどう感じているか」などの視点が盛り込まれると、多少冷めてしまう部分が個人的にある。では入れ替わりではなく、陵辱や快楽堕ちもないような作品はあるかというと確かにある。

 

たとえばMay-BeSOFTから出ているエロ下「ちぇ〜んじ! 〜あの娘になってクンクンペロペロ〜」の小説版(ぷちぱら文庫)は、いわゆる乗っ取りを題材としている。主人公が(主に)意中の子へ憑依し、身体を好きに使うというものである。憑依された側の人格は意識がなくなるという設定がある。しかし人前で何か恥をかかせるとか、知らない人との性行為に及ぶなどはいかず、あくまで主人公と意中の子の関係性が描かれる。しかしこれがゲームになるとそうではなくなるし、そもそも他人の身体を好き勝手するという点での抵抗は個人的にある。小説版ではその色が濃く、他人の身体を自分で好き勝手するという意識、一歩引いたところから俯瞰しているような書き方が特徴的である。

 

parabook.co.jp

 

いままであげた作品もすべてが悪いというわけではなく、実用的ではある。ただ「目覚めると」における地の文において指す単語を変えるという方法は見たことがない。ほかの作品では外見がどうであれ男性主人公が行動するときはその名前を主語に置いているケースしかなく、これは独特だと思った。それと呼応するように「目覚めると」には他の作品にない魅力がある。ここまでもそうであるようにあまり性的な描写は引用したくないが、ぎりぎり出すと以下がある。

 

>胸に生じた存在感たっぷりな膨らみは重さも結構なモノで、女体化して日が浅い“少女”はそのバランスにまだ慣れきっていない。ブラジャーである程度緩和出来ていたのだが、こうなると弾力たっぷりな奔放球に身体がついていかず困ってしまう。
1巻 p229

 

>少年、いや、もうすでに少女のバランスを崩す。(中略)頬を上気させながら“少年”は、やっとたどり着いた自宅へ駆け込んだ。
2巻 p11

 

たとえばこの「“少女”」という描写は本編で数回みる単語であり、女体化した主人公を「はるか」と指す以外で用いられる。2番目に引用した部分は、一旦男に戻って通学していると女体化してしまい家に戻る場面である。ここでも「"少年"」に「しょうじょ」というルビがふられている。この書き方からも人物に対するこだわりが感じられる。また「奔放球」という造語がある。これは官能小説でよくあるのかは分からないが、行為においては独特の造語が頻繁に登場する。詳しくは書けないが、身体のどの部分がどう感じ、どう反応したかをじっくり描くのも、この作品の特徴であると思う。

 

また全5巻あるのも特徴的である。大抵は1巻で完結するこの手のものにおいては詰め込もうとした結果ひとつひとつのシーンが短くなったり、分かりやすい定番のシーンを次々と出して納得させるようなところがある。しかしこの作品は扱うテーマゆえの長さを生かした様々なシチュエーションがじっくりと描かれるうえ、何気ない戦闘シーンや日常の場面で女体化した自分を実感するシーンがあるのもうれしい。

 

シチュエーションとしては男の娘、女体化した男の娘、ふたなりになった女の幼馴染、男体化した幼馴染、など様々な相手との行為が巻を費やして描かれることからもそんな熱意を感じる。基本は「あとみっく文庫」から出ており物理本も電子書籍もあるのだが、4,5巻のみ「二次元ぷち文庫」として電子版だけが存在している。この4,5巻になると主人公があまり登場しなくなる。4巻は終盤ではじめて女体化したり、5巻にいたってはここまで展開した物語を回収するためのバトル的描写が主となり性的な要素はほぼない(一回だけ主人公と女性キャラの百合エッチがある)。そういう意味での真面目さも感じられて好きな作品である。

 

「目覚めると」にあるのは人称に対する工夫であり、従姉妹を護るという目標ゆえに快楽に堕ちることも、女性の身体を乗っ取ることも、どちらにも落とし込まれない絶妙な感覚を、全5巻の様々なシチュエーションや丁寧な描写で描いている作品である。具体的に性的な描写を出すのが憚られたので分かりにくいし、長くなったのだけど以上です。

 

 

nikki_20230831「単色背景 など」


8月が終わるので日記でも書くかと思ったが、起きたのが22時でいつのまにか9月になっていた。許してください。別に夏の話をするわけでもないけど

 

米澤穂信「いまさら翼と言われても」を読んだ。言わずもがな古典部シリーズの最新作(2016年)。個人的にずっと積んでたので、2021年くらいの作品だという気分がずっとあるのだけど、自分だけだろうか……。最初のふたつ「箱の中の欠落」「鏡には映らない」は真相にそこまで手の込んだことをするかなーと思ってしまったのだけど、それ以降はどれも悪くなかった。特に「わたしたちの伝説の一冊」が好きだった。創作に関する話に自分が弱いというのもあるのだけど、閉鎖的な学校の人間関係や場面、謎と解決と共に明かされる意図のよさなどが詰め込まれており、ここまでドラマを演出できるのがよい。表題作もちょっと想像していたものと真相がひねられていた。ただただ次回作に期待するとしか言えない。ところでこの人のは全部読んでるといういわゆる「推し」みたいな作家さんがいないので、今年のうちに米澤穂信の本をぜんぶ読みたいと思っている。その矢先にお父さんが亡くなられたニュースがあったので残念である。

 

クエンティン・タランティーノパルプ・フィクション」を映画館で見た。3時間という長さに尻込みしていたが、始まると案外はやく感じた。もともと時系列がシャッフルされているのは把握していたし、帰省したときに父親にこの映画が気になると話したら人がバッタバッタ死ぬと言われたのも把握していた。本当にそうで、結構喋っていた役の人が死んでしまったり、あるいはボコボコにされたりしている。このバイオレンスな感じは藤本タツキチェンソーマン」を今年の1月に読んだときを思い出したし、そういう影響もあるんだろうなと考えたのが一番の感想になる。不謹慎に笑えない場合を除いて一定のグロさや悲惨さ、恐怖を得ると防衛機制的に笑ってしまう感覚があって、これもそんな感じだった。

 

ナユタン星人に「ハイカラーガールスーパーノヴァ」という曲があり、今年の5月くらいに聴きかえして懐かしいと同時に好きだなと思った。夏なのでふたたび聴いている。単色背景と少女というmvの組み合わせはボカロにおいてよく行われるものだ。その形式で有名なボカロPだけが集まったコンピレーションアルバム「モノカラーガールスーパーノヴァ」のために書かれた作品。どうやらナユタン星人のアルバムに収録されているものと、コンピに入っている単曲では歌詞が違うという趣向があり(ナユタン星人はこれをよくやるらしく、リバースユニバースでも同じ趣向があるらしい)、自分はコンピを持ってないのでアルバムにある曲だけ聴いている。いわゆるモノクロの世界に少女が現れて光るという感じの曲なのだが、リフレインされる「光った」「出した」という歌詞を聴いていると琴線に触れるものがある。

 

単色背景のルーツなどまた調べてみたいと考えつつそれに思いを馳せると、一瞬の象徴でもあるようである。光を放ったとき、一瞬だとしてもその場はある一色に染まる。単色背景を用いて表現されてきたものはいろいろあるけど、この曲が単色背景に与えているのは「一瞬だけ光っている」解釈だと勝手に思っている。そして今も受け継がれている「単色背景+少女」というフォーマットに感じる良さは、そんな儚い一瞬を感じるところにもあるのかなと曲を聴いて考えていた。雑多な背景を捨てて、その人物だけに焦点を当てて、風景でなく人間の時間を切り取る。モノトーンの背景に、少女が佇んだり一瞬のポーズをとっている構図にはそういう良さもあるのかもしれないと思う。

 

nikki_20230827「子供のころ見たテレビでなぜか強く印象に残っているシーン」


という話が読んでいるブログでされていたので、倣ってやってみます。

 

kageboushi99m2.hatenablog.com

 

こういう「なぜか覚えていること」は面白いし、そこでお笑いとして製作されたテレビ番組の光景が淡々と語られる面白さもあり元記事は楽しく読ませてもらったのだけど、いざ自分に立ち返ると些細な記憶は思い出そうとしても思い出せない。不意にあるものを見て連想する場合がほとんどである。ゆえにそんなにたくさん挙げることはできなかった。熱心に見ていたわけではないが、まあ人並みには見ていたかなくらい。今もそうなのだけどドラマとかはあまり見てなくて、バラエティばかりだった。

 

  • VS嵐」のオープニングトークではゲストが出てくる前に5人で雑談をする。そこで櫻井翔さんが出演していたシリーズ「謎解きはディナーのあとで」の略称を考えようという話題があった。たぶん劇場版が公開されるということだった。結論が「謎ディ」になっていたこと。過去の日記でも書いた。

 

  • 小学生のころに家族でUSJに行った。ホテルにチェックインする前に周辺のコンビニに行って買い出しをして、自分は外で待っていた。店内ではテレビが流れていて、世界仰天ニュースがスペシャルだった。そこでは食肉を偽装した会社の事件再現ドラマを延々と流しており、外からは音が聞こえないので、無音のそれを見ていたこと。

 

  • IQサプリ」でいつも父親の方が速く問題の答えにたどり着くので、悔しくて自分が泣いていたこと。

 

  • はねるのトびら」の「ほぼ100円ショップ」におけるドランクドラゴン塚地の「ぶっこわし」という概念。「ギリギリッス」で、北陽の虻川がニラを齧り、その吐息を嗅がされるという罰ゲームがあったこと。ニラを喰ったあとの口が臭いということが分からなかったので、いまいちピンとせずに見ていた。

 

 

  • いきなり黄金伝説」の「1か月1万円生活」に道重さゆみが出ていたこと。電灯にアルミホイルを貼ることで、少ない光で眩しくなる?というテクを披露したり、めんつゆを使っていたこと。曖昧なので間違ってるかもしれない。

 

  • DJ OZMAアゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」という曲がある。これは氣志團のボーカルの別名義らしいが、「Bounce  with me」を連呼して「Bounce!」を4回繰り返すというパートがある。ミュージックステーションでそれを歌う際は「Bounce!」を繰り返した後にズボンがスッと落ちてパンツが見えるという演出をしていたこと。見ていたときの自分は幼稚園児だったので、テレビで流れる際は真似をして、パンツ一丁になり家族を笑わせていた。

 

  • B'z「愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない」をモチーフにした芸人の歌ネタ。いま調べるとサイクロンZという芸人さんのネタらしい。語り手がアイちゃんという知り合いの母親(愛のまま)と自分の母親(わがまま)に目玉焼きを届ける、という設定で、黄身だけを残して白身を舐めとる(君だけを傷つけない)という描写があったこと。

 

  • 「総合診療医ドクターG」というnhkの番組で、小学生の女の子の症例を扱った回。実際にあった珍しい症状の例から病名を推理していくというドキュメンタリ形式の番組。VTRの切れ目ごとにスタジオにいる研修医が病名の推理を発表、プレゼンターであり実際の診療を担当した医師とディスカッションするというもので、病名の推理はミステリに近いということを自分は学んだ。この回では足が痛くて学校にも行けないという症状が白血病であった、という例を扱っていた。さらに病名が分かったところでそれを家族と本人にどう伝えるべきか?というところまで問いとして紹介されていた。普通に怖かったのと、病名を宣告するシーンで悲しい気持ちになったので覚えている。これを見ている父親から「人の病気をエンタメとして消費するのが気に食わない」と言われたところまで覚えているしそっちのほうが強く残っている。

 

  • しんちゃんのホラー回で、あるはずのない階段が幼稚園に出現する話。

 

  •  「ほんとうにあった怖い話」で指輪を拾ったら部屋の窓に死体が降ってくるようになり、窓を打ち付ける音に苛まれて眠れなくなる話。(大島優子主演の「赤いイヤリングの怪」らしい)基本怖いやつは見ないのにこれを友人の家で見せられ、荷物を置いていた部屋までひとりで行けなくなったのを馬鹿にされた。ひとりで取りに行けるまで家に帰るなと言われて半泣きになっていた。

 

  • ドラマ「怪物くん」で、寿命と引き換えにお金が貰えるという怪しい商売に怪物くんたちの知り合いである人間が引っかかる話。

 

  • ドラマ「dinner」で八嶋智人が泣きながら走っていた?シーン。それを見て母親が泣いていたこと。私の地元は広島で、八嶋さんはなぜか広島にゆかりがある印象があったけど、いま調べると別に関係はないらしい。カープファンでテレビによく出ていた印象があるからだと思う。あとこのドラマはサカナクション「ミュージック」が主題歌で、それと合わせて印象に残っている。

 

こうして書き出すと、自分の場合番組の細部はそれを見ていた周囲の状況と同時に、そして周囲の状況の方が色濃く記憶されていることが分かる。あとははねるのトびら和田アキ子とか、黄金伝説の春日・よゐこ濱口とか有名なシーンはぜんぜん記憶にない。アンビリバボーとかヘキサゴンとかIQサプリとか、もちろん大まかな記憶はあるのだけど細かい部分までは思い出せない。また思い出したら書きます。