nikki_20240409

 

いちどTwitterからログアウトしているけど、ログインしている別のアカウントからフォロワーを検索してツイートを見てるし、あまつさえそのいいね欄を見ることでほぼタイムラインを見ているのと変わらない感じになってきている。漫然とおすすめタブを見ているよりかは遙かにマシではある。ただひとついいねをしないという制約は自分に課していて、いまのところ破っていない。これはなんとなく人が自分のいいね欄を見た時にどう思うか気にする、自意識過剰な性格が生かせている例だと思う。何もないのにゴミを漁るようにひたすらスクロールしたり、通知欄を更新することはなくなって見る時間は減ったと思う。

 

よく見ていたyoutubeチャンネルの「ふっくらすずめクラブ」が改名の告知とリニューアルを経ていろいろあった。株式会社バーグハンバーグバーグが運営するウェブメディアことオモコロ、そのyoutubeチャンネルの2つ目である。結論としてあまり好みでないものになったと感じていること、考えたことを書く。私がTwitterを始めた2017年より前のインターネットは全く知らないと言っていいし、Twitterを始めてからもオモコロは知らなかった。ただARuFaダ・ダ・恐山くらいは流石に目にしたことがあって、おそらくその経由でしばらくして知ったと思う。youtubeチャンネルの1つ目であるオモコロチャンネルは1本目くらいから見ているけど、なんで見ようと思ったのかはよく覚えていない。同様の流れで2022年にふっくらすずめクラブが始まってからも欠かさず見ていた。

 

普段特に何かのコンテンツにどっぷりというわけでもない。しかしオモコロチャンネル関連は比較的深く触れている方なので、界隈が揺らいでいるのをリアルタイムで体験できて興味深かったのが全体的に感じたことになる。ほかのコンテンツで紛糾している、という風の噂はこういう感じなんだなと思った。また、もともとふっくら(以下略)という名前がエゴサーチに不向きだしあまりタイムラインで名前を見かけることがなかったのだけど、数日でたくさんの人が言及していて、みんな見てたんだという気付きがあった。自分自身も欠かさず見ておきながら特に感想を呟いたこともなかったので当たり前と言えばそうだが、目に見える形で分かると、なるほどという気持ちになる。

 

①ふっくらすずめクラブの改名案について、②同チャンネルのリニューアル後の雰囲気について、③オモコロそのものについて、あたりがおそらく要点だし実際に言及されているようで、それぞれは関連しているけど別々に考えた方がよいと思うため分ける。トレンドなどを見ないので③についてはよく分からないし、詳しくもないので言うことがない。①と②は気になって何回もパブサ(代理エゴサーチ)してしまった(これだからTwitterを見ない方がよい)。

 

①について改名後は「会社にしか友だちがいない」にするという話だけど、第一印象としては否定的だった。それはおそらくタイトルから感じられる今後の方向性で、たとえば友達同士のルームシェアの様子を撮影しているチャンネルなどの雰囲気を連想させた。個人的な好みとしてそのようなチャンネルは好きではないので、このタイトルにも同じ抵抗がある。ほかの意見として自虐はよくない、というものがあった。分かるし、おそらく感じていた抵抗の一部分にはこれがあったのだ思う。

 

②について実際にリニューアル後に感じられる雰囲気は、よりラフに日常っぽさがでているものである。本当にシェアハウスをしている友達同士のあいだで遊んでみたり、といったものに近い雰囲気を感じる。日常っぽさや素っぽさはこれまで動画の「外」であり、動画の「内」があった。リニューアル後の雰囲気は動画の外と内の区別をなくしていくものだと感じる。もちろん完全な素ではなく、ある程度撮れ高や面白さが意識されている気配はある。ゆえに外だった部分を内と入れ替えていくのではなくて、どこまでが素か分からない、内と外の区別がなくなっていくと表現した方がしっくりくる。フィクションではないかと言われていたのも、ノンフィクション(外)とフィクション(内)が混濁するモキュメンタリーの性質と方針転換の方向性が被っているからだ。

 

自分の感じ方としてある、これに受け入れられない気持ちを考えてみると、私は内と外をしっかりと分けているものが好きなのだと思う。動画の中ではあくまで動画の中として振る舞い、それ以外の部分は(たまにしか)見せないくらいが好みだ。「個人的にそのようなチャンネルは好きではない」と改名案を見て感じたとき、なぜそう思うのかははっきりせず直感的なものだった。動画内容を見て考えていくと、理由は同じなのだと気付いた。外と内が混濁しているからである。ある程度好評だった外の雰囲気を取り込んで内にしていくのはいわゆるこういうのが好きなんでしょう、と言われているようでそこにも自分の逆張り意識が働いて好きになれないと感じてしまう。これまで動画内で行われていたノリが外(文字通りスタジオ外の会社の廊下)でも行われているのには痛さを感じてしまうところもあった。今日更新されたオモコロチャンネルの人生相談では「動画回ってないときに同じ相談されたら違う回答をします」という発言があり、端的にふっくらとの運営方針の違いが出ているなと思った。単に違うだけで良し悪しはない。あと物理的な問題として毎日投稿になると追いきれなくなってしまったのもある。

 

いろいろパブサしてみるとこの②については好評も不評も半分ずつそうだった。例はたくさんあるが内との外の区別が無い雰囲気が好きな人がいるからこそ成り立っているコンテンツもある。ゆえに好評なのも分かるし、私と同様に抵抗を感じる人もいるのも分かる。二項対立に持ち込むのはよくなくて、さまざまなんだろう。オモコロチャンネルを主としてあの人たちの提供するものを楽しませてもらっていて、応援したい気持ちはあるし、もちろんこれからふっくらすずめクラブも変わっていく(二度目の改名予定もある)だろうから適切な距離感で楽しめたらと思う。

 

いちどこの話題を終わった感じにしたが、内と外の区別がついているほうが好みというのは実感として感じている。長々と説明はしないけどさよならポニーテールが好きなのもおそらくそうだと思う。Vtuberについても名取さななら信頼できる!みたいなノリが冷やかされているツイートを見たことがあるが、名取氏に詳しくないにしても自分も性根は同じなのかもしれない。鳩羽つぐが好きでぬいぐるみとか買ってるのも根の部分はそうだと思う。人が丸ごとコンテンツになっていくことへの抵抗はある。こういうことを書くとまたそういう人か、とかキャッチ―な言葉に回収されるんだろうなという気がしてならない。自意識がまとわりついてきて、やっぱりTwitterは見ない方がいい……とますます感じている。

 

nikki_20240322

 

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マシュマロが来ていました。ありがとうございます。自分は調理実習でバニラアイスはなかったです、いいですね。そもそもスイーツを作ったこともなかった気がする。広島の小学校に通っていたのでお好み焼き(もちろん広島風)の実習があったりしました。こういう質問を受けて自分語りの話に持っていくのっていいのか分からない……。内容に戻るとアイスも作りたてが美味いとかあるのか気になりますね。調理実習のアイスがおいしかったのは他にも添加物の無い作り方とか、バニラエッセンスとかが関係してそうです。バニラの香りがあるってことは入っていて、香料じゃなくてビーンズだったとかでしょうか。

 

 

本格的にアイスを作りたくなって、お菓子作りの材料にはよくあるけど買うのは勿体なくて省略しがちなバニラエッセンスを買ってみました。
舐めてみたんですがまさにバニラのあの味がしました。
多分これ白米にかけてもバニラの味になると思います

— 遺失物届 (@arudanshi) June 4, 2020

 

私も実はバニラエッセンスを家に持っており、ただ3,4年前に買ったものだったりする。油みたいなものだから?いいだろうとずっと使ってますが滅多に使わないし、匂いは落ちてません。お菓子を作るときに頻出する調味料だけど無視しがちだから買って白米とかににかけてみるか!と思ったのだけど未だにお菓子にしか使っていない。ホットケーキ、フレンチトースト、プリンあたりを使って作ったことはあるけどアイスは作ったことないと書こうとしたけど、たぶん作ったことはあって、ただ失敗している。

 

 

ネットで簡単に作れると謳われていたアイスクリームを作って食べたんですが味がほぼしなくて、味覚障害……?と不安になったんですが他の料理を食べたら普通に美味しかったので、単にアイスの味が薄かっただけだと判明しました

— 遺失物届 (@arudanshi) April 29, 2020

 

完全に自分語りになってきたので段落を変えて常体に戻すと、調理実習ではないけどアイスを作ったことはあった。それには小学1年生のときの担任の先生がかなりの科学好きだった話をする必要があって、科学の小噺や工作や実験のようなものを頻繁にやってくれた思い出がある。当時先生の人気度などを考えたことはなかったのでどうかは分からないが、担任だとうれしい・面白い先生だったであろう。この教卓も全部原子っていう小さいから粒からできてるという話を覚えている。アイスはその一環で作った。先生が紙コップと木べらを配り、みんなが牛乳とカルピスを注いで混ぜる。バットにコップを並べて理科室の冷凍庫で冷やすことでそれは完成していた。味は覚えていないけど、けっこう変わった取り組みだったと思う。

 

最近見た夢のメモ 自分が楽団の一員としてなにかを演奏していたら客席の学生が騒がしくなり、指揮者の先生が演奏を停止する。どうやら揉め事が起こっていたらしく、なぜか先生が舞台を降りて注意しにいく。揉めていた子が事情を説明する。そこから繋がっていた気がするがいつの間にかなぜか童話みたい世界になっており、その子は動物の子供だった。自宅まで行き協力して問題を解決するが、翌日にその子が亡くなったことを聞く。どうやらそこは動物の街で、人間が介入した時点でなにか決定的に破綻が起きていたっぽいと知る。よく分からない夢だった。

 

いわゆるNTRBSSが好きかというのを考えてみたのだけど好きではない。絶対にそれだけは無理で嫌いというほどではなく、純愛に比べるとどうしてもノイズがあって興奮しにくく、そうなんだというくらいのテンションになる。よく分かっていないので前に好きな人にどこがよいか訊いたこともあったが、他人に奪われるということ自体に魅力がある、というような回答だったと思う。自分が良いと思うにしてもそこに魅力はないのでやはり難しい。ただこれは自分が本当に夢中になれるキャラクターがいないからかもしれず、本当に心奪われる存在がそのような状況になっていたらとても嫌いになるのかもしれない。

 

nikki_20240315「とてもおいしかったもの」

 

印象に残っているご飯について。外食の頻度が多くないのでハズレを引いたことがほぼなく、だいたいおいしいの範疇に入って楽しんでいる。その中でもまた食べたいと思っていたり、実際に何回か食べておいしかったと感じているものを挙げる文章です。

 

・麺屋たけ井のつけ麺

大阪の阪急梅田駅の改札内にあるお店で食べた。他の場所にもある。つけ麺一般のイメージとして魚介豚骨のものが多く、ここもそれである。同じ味のものは違う店で5回くらいしか食べたことはないが、その中ではここが一番おいしかった。醤油と魚介と豚骨の味がどれも濃いが柚子の香りもしておいしく、麺の噛み応えもある。JR新大阪駅の近くにある時屋もおいしい。

 

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ロイヤルホストにあったステーキがガーリックライスのうえに載ったもの

別で書こうと思っていたが1月にひとりでロイヤルホストに行った。幼稚園のとき以来だと思う。デカンタが想像以上にデカかったこと・周りの雰囲気が貴族すぎて怖かったことはまた別の話として、何を頼んだらいいか分からなくてとりあえずおいしそうなのを頼んだ。ステーキがガーリックライスの上に載ったもの(名称は知らない)はひと口食べた瞬間にヤバ!と口に出してしまうくらいにはおいしく食べ終わるのが惜しかった。これは当然良いに決まっているおいしさで、先のつけ麺で魚介の味がとか言っていたのとは違う、旨味という概念そのものを食べている印象だった。たぶんどのメニューもそんな感じなんだろう。デザートで食べたパフェは林檎とキャラメルとバニラという自分には予想できない味だったので楽しく、全体的にファミレスでこんな体験もできるんだという気持ちだった。このペースで書いてると終わらない。

 

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・お寿司・すき焼き・お好み焼きの一口目

単に好物というだけだが、食べるたび一口目に感動している。そして食べてから数日経つとまたすぐに食べたくなる。一口目としたのはだいたいおいしいので調子づいて食べすぎて、終盤苦しくなることが多いから。お寿司はトロ系が好き。肉の油はそんなにたくさん食べられないため、すき焼きは一口目が常にピークになっている印象がある。お好み焼きは広島風

 

・関谷スパゲティの塩バジリコ

これも別で書こうと思っていたが1月に東京へ行き、中目黒に行って食べた。オモコロチャンネルでおすすめされていたため。そもそも散々家でパスタを食べるため、お店で食べることはほぼ無い。それでもここはパスタ専門店のため頼んで食べたら家とは全く違うと分かった。まず具材が多いし、麺も太くてもちもちしている。パプリカ、海老、ベーコン、玉葱などの旨味がちゃんと油に絡んでいて、しかしバジルのあっさりとした感じもあり、大盛にしたけど一気に食べてしまった。近所にできたら毎日通いたいし、家でもちゃんと具材を多めに入れて作ってみようと思えた。余談として前菜でパクチーのサラダを選び、生まれて初めてパクチーを食べたら意外といけた。

 

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エスビー食品 サヴァ缶とレモンバジルのパスタソース

前に成城石井で買って(別に成城石井でなくても買えるが)おいしかった。鯖とレモンで既においしく、バジルでさらに爽やかになっている。たぶんこのサヴァ缶シリーズは他もおいしそうなので試したい。既に消してしまったが、noteに書いていた日記でも言及して、同じものを再現しようとしたことがあった。その際に安い鯖缶と100円とかのバジルソースでやったが遠く及ばず、Barillaのジェノベーゼソースを使ったらおいしくできた。そのソースもおいしかった。以下は試行錯誤の跡

 

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・近所のまぜそば

一回たまたま行ったらかなりおいしくて、外食であたりを引くという経験が分かった。スパイス?だったりが入っていて複雑な感じなのだけど、全体として癖になる感じ。替え玉をしたかったけどお金が足りなかったのを後悔しているので、また行きたい。

 

・ファミマの台湾まぜそば

まぜそばだと手頃に買えるこれもおいしい。いちど2つ買って食べてみたいと思いながらできてない。

 

・バッケンモーツァルトのチーズフロマージュ

幼稚園くらいのころに食べてから好きであり、これなら無限に食べられると思っている。広島の洋菓子会社が作っている一口大のチーズスフレ。先日久しぶりに食べたけどやはりおいしかった。

www.b-mozart.co.jp

 

・Route271のパン

これも大阪梅田にあったパン屋。評価が高かったのでちょっと並んで食べたらおいしかった。そもそもコンビニの菓子パンばかり食べているので、お店の焼きたてが久しぶりというバフもあったと思う。コンビニの全部が一体となっている薄っぺらさとは違い、やはり焼いた風味や妥協していない具材の味がちゃんと合わさっている!という感動がある。どれもボリュームがあってジューシーな印象でまた食べたいと思っていたが、いまは閉店してまた高槻に店舗ができる予定らしい。

 

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・フランソワ喫茶室のクリームソーダとプリン

これも別で書こうと思っていたが2月末に友人と遊んだときに京都で食べた。もともと京都 喫茶店とかで調べると出てくるお店で、前に行ったときは並んでいたので諦めていた。平日でも混んでいたが、まさに純喫茶という感じの店内だった。コーヒーが飲めないので迷った末にクリームソーダとプリンというお子様ランチみたいな注文をした。どちらもイデアっぽい、クリームソーダといったらこれ、プリンといったらこれ、という決定版みたいな味がした。クリームソーダは炭酸は弱く甘めなのがバニラの風味が強いアイスにあっていて、プリンはカラメルの濃さがよかった。

 

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・りくろーおじさんのチーズケーキ

これも友人と遊んだときに直営店に行って食べた。ホールで食べると言っている人をよく見るので疑っていたが、確かに口の中ですぐに溶けるのでほぼ霞を食べているみたいである。でもその軽さが癖になるし、甘くておいしい。直営店ではパンも売っていてたまごサンドも食べたのだけど、こちらも甘い卵焼きレベル100みたいな半熟加減でおいしかった。

 

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出町ふたばの豆大福

和菓子で格別においしいという体験はしたことなかったけど、これを食べて和菓子にも違いがあるのだと分かった。お餅にふわふわやとろとろという食感を感じたのは初めてで、ほどよく甘じょっぱくてよかった。言わずと知れた?京都アニメーションたまこまーけっとのモデルになったお店だけど、その評判以外でも絶えず列ができているお店である。

 

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上述した友人と会ったとき、ここでしか食べられないみたいなものにこだわる性格であることを指摘されて初めて気づいたのだけどそういうところはあると思う。これからもおいしかったと思えるものを増やせる人生でありたい。

 

nikki_20240314


前にも書いたのだけど「すのはら荘の管理人さん」というアニメが高校のころ塾から帰ったらやっていたので見ていて、最終回で終わってほしくなくて泣いたことがある。いまでもアニメはそんなに見ないが、後にも先にもリアタイして全話見たのはそのときだけ、大人?向けアニメで泣いたのも初めてだった。ねこうめ氏の漫画を原作とするおねショタを描いた作品で、お色気枠であり泣き要素はない。見ていたのは塾から帰っていたらやっていたのもあるし、お色気ものを見る背徳感もあたぶんあった。いわゆるバブみを感じられるような大家さんが登場するのだが、単純にそういう癒しに包まれたいという気持ちが強く、それが泣いてしまった一番の理由だった。もうひとつというかこれは先の理由とも関連しているが、最終回が終わっても日常が続いていくことをひしひしと感じたからだと思う。ラストシーンはいつも通りの道を歩いていくものだったと覚えている。彼女たちの日常は続いていくけどそれを見ることができないし、登場人物は大家さんの癒しを甘受できるのに自分にそれはもうできないんだ、という寂しさがあって泣いていた。原作は完結したらしいのでどうなったのか気になる。些細な記憶としてとどめていたけど、そういう終わったあとも人生や日常がだらだら続いていくというモチーフは今も好きで、ある意味自分の原体験だったのかもしれない……と思い出していた。

 

nikki_20240304

 

youtu.be

 

オモコロの原宿氏と東海オンエアの虫眼鏡氏が対談している動画を見た。全体的に能動的であることの大切さを述べているような印象だった。話の中で原宿氏のやっているありスパの話題が出ており、ほぼラジオは聴いてないのだけど最新回が面白そうだったので半分くらい聴いた。いろんな人の些細な事件を共有する回でよかった。そもそもこれに限らずラジオってそういう様々な人のエピソードが交錯する場だ、という気づきもあった。対談でもどんなの人生にもいろんなことがある……という話があった。この日記でも多く言及している気がするが、自分も日常のささいなことが集積して世界を形作っている感じが好きであり、そこの視座は原宿さんも一緒だったんだ!という気づきがあった。でもどうなんだろう、世の中における話題はどうしても共感できる人が多いものになっていく傾向がある。単にこういう日常の小さなことは取りこぼされるだけで、みんな実は好きなのかもしれない。

 

関連して思い出した関係ないことを書く。中学校のとき、体育祭に伝統をつくろうということで自分たちの代からソーラン節を踊ることになった。まず自分の学年が一通り踊れるようになってから「いま練習中の下級生の踊りを見る」という機会を設けられ、目の前で下級生のソーラン節を見た。するとやる気がなさそうで、どっこいしょどっこいしょのところで全く腰を落としてなかった。それでみんなが「なんだこれはもっと腰を落とせよ」みたいにちょっと怒って険悪な空気になったということがあったのだけど、「腰を落とせよ」って言ってみんなが怒っているのは面白すぎる。実際中学生なんてそんなやる気がないもんだし、ちょっと先生がやる気を出すためにマッチポンプというか対立煽りをしたのかなーと思い返すと気づくものがある。

 

「パソコン触ってて、調べ物しようとしてChromeを開くその数秒の間に何が目的だったか忘れるようなことが結構ある」というツイートがあり分かると思った。たぶんこれはわりとあるあるで、自分なら例えばあるツイートのリンクを貼ろうとdiscordを開く→あるサーバーに書き込まれている内容に気を取られる→結局忘れてツイートのタブを閉じてしまう(タブは溜めない主義)ことがよくある。実際はもっと複雑で、これに「今浮かんだ文言をメモしよう」とか複数のことが頭で並行している。つまり数秒前に考えたことを忘れるのはよくあるってことで、これは自分の気質もあるだろう。何もしなくてもいろんなことを次々と頭で考えてしまう癖がある。でもそれだけでなく、情報が溢れているインターネットの仕組みがそうさせてるんじゃないか?とも思う。先の例だとdiscordのサーバーに書き込まれていることだったり、ちょっと開くとたくさんの情報が飛び込んでくるのはすごい。

 

でもこれはインターネットに限らないかもしれない。去年に大阪のシカク(個人発行の同人誌やZINEを扱うお店)へ行き、買った本をいまだに積んでいたのでちょっと目を通した。そのときに「野良サイン」についてのちかく氏の本も買っていた。いわゆる駅にある公式でないサイン、駅員さんが手で貼った紙だったりを「野良サイン」と呼んで集めているのがちかく氏である。この概念についてはpanpanya氏もユリイカのインタビューでちょっとだけ触れていて、うれしかった。本を読んで思ったのは私たちの視界って客観的に見るとめちゃくちゃ情報に溢れているなということで、見慣れた駅でも視界の中に文字がいくつがあるか考えると結構すごそうである。駅は特に顕著だけど、街の看板とかもそうだ。情報が多いのはインターネットも街も同じで、色々考えが移ろうのは仕方ないのかもしれない。そういう意味で住宅街だったりを歩くのが好きなのは、そこに文字情報が少ないから、というのもありそうである。

 

norasign.info

 

「集団に対して「ここには自分と似ているような人しかいないから居心地がいいだろうな」というような期待は抱かないほうがいい気がしてきた 5人くらいまでならまだしも10人とか超えると色んな人がいるから」というツイートを自分でした。ちょっと言葉足らずな気もしたのでもう少し考えたことを加えると、依存先をひとつにしないほうがいい、ということかもしれない。ひとつの集団にすっぽり自分のすべてを満たしてもらおうとするのは不健全で、自分のAの部分を満たしてくれるのはA’という集団、Bの部分を満たしてくれるのはB'の集団というようにするのが健全なんだろう、これはいろんな人が言っていることである。それを飛ばして、ここは自分と似ている人しかいないんだ!と期待をかけすぎてしまうとあまりよくない。

 

今年に入ってからのここの更新ペースをふと見てみると過去最低ではあった。気が向いたときに書くのか、なるべく更新したいのか、立ち位置をはっきりできていないのでさもありなんという感じである。自分が楽しく続けられたらいいと思う、などど凡庸なことしか言えないけどそんな感じなのでぼちぼち書きたい。暗い話題ばかり書いているような実感があり、それは自分の文体も関係しているのかもしれない。そもそも自分に文体というものがあるのかも分からないけど、なんとなくシリアスというか感情が見えてこないような文章では!?と感じている。2020年以降こういうことを書いてきて変化しているとは感じていて今いちばんしっくり来ているというだけではあり。もっと感嘆符とか三点リーダを多用していったらいいのか、そういう問題でもない気がする。文体は置いておいても暮らしているうえでぜんぜん楽しいこともあり、それらをまとめて書きたいと思いながら書けていない!また更新したいです。

 

nikki_20240227

 

gyazo.com

 

マシュマロが来てました。うわー久しぶりですね……おすすめありがとうございます。公開されたときにたまたまyoutubeをぼーっと見ていて、チャンネルをフォローしていたのでなんか更新されてる!?と思ってました。たぶんPotsunenは「maru」「P+」「THE SPOT」は見たことあるっぽいので舞台のほうも見れたら見たいですねー。このマシュマロのおかげで数回小林賢太郎さんについては書いてるんですが、2021年にnoteで書いた日記はすべて消してしまった。ふたたび書くと中学くらいのときにテレビくらいしか映像の娯楽がなくて、BSでやってた「小林賢太郎テレビ」を見て知って好きでした。

 

 

 

大阪であったパスピエのライブ「有象無象印象万象現象」に行った。かっこよかった。まず演奏がかっこいい。1曲ごとにリズムなど趣向が異なっていて、それをやりきっている。アンサンブルの妙をやってるバンドだと思ったし、各人が楽器を介して会話しているような、そういう意味で現象を見ているようだった。「化石のうた」とか「cube」あたりでそれを強く感じて、流石にかっこよかった。

 

もうひとつバンドとしての姿勢もかっこよかった。成田ハネダ氏がバンドが15周年であることを話していた。続けることで分かったこととして、最初はうまくできなかったけどどんどんやりたいことが思い通りにできるようになった、ライブの度に最高を更新できている、と話していた。また、同世代のバンドと比較したときにパスピエはクリエイテビティが特徴だと思う、ともあった。それは納得だった。たとえばライブでは回文構造になっている「oto」も演奏していたり、「選択詩」が「どれ」にちなんでドとレのみでメロディが構成されている、という話もあった。パスピエが好きなのはそういう言葉への遊び心があって、私が短歌や言葉遊びが好きなのと呼応していると改めて分かった。どちらが鶏と卵か分からない。前述したような音楽面でも、曲ごとの趣向から果敢に挑戦していく姿勢を見せつけられてかっこよかった。自分も創作を長く続けたいと思った。

 

最新アルバムはピンと来ていない曲もあったのだけど、ライブ後にアルバム全曲演奏したと分かって少し驚いた。振り返ると確かに全曲そうだったし、良い曲ばかりじゃんという思いである。大胡田氏がアルバムをこう聴いてほしい、という思いをライブに託していると言っていてそれを受け取れた気がする。アルバム以外でやった曲だと、わたし開花したわ、ONOMIMONO、幕の内ISM、ネオンと虎、からはなかった。アルバム全曲やると当然なのだけど、自分が中学のとき聴いていた&DNA以前のものは少なく、それ以後の方がほぼ長くなりつつあるんだと寂しくも実感した。挑戦する姿勢ゆえに過去の曲からは明確な転換点があったように思う。「ユモレスク」が分からなかったのでもっと追わないといけない。

 

あとは細かいこと。曲を聴いていてキーボードを演奏している姿をイメージすることが薄くて、それはだいたい打ち込まれていることが多いからだと思う。そんな感じで成田ハネダさんの印象があまり無かったので、実際に弾いているのを見られてかなりよかった。大胡田なつき嬢も快活な人なんだと分かった。あのワードセンスがここから出ているのかと感動したりしたわけだった。また見に行きたい。

 

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nikki_20240221

 

1か月近く更新できてなかったのは忙しかったからではなく、むしろ真逆だったと思う。何もする気が起きずぐだぐだしているのが2月前半で、後半に差し掛かりつつある今は順当に忙しくなりつつある。元旦に祖父が亡くなったあと、もう一人の祖父が倒れたとの報告があり、先日亡くなったので葬儀に急遽行ったりしていた。

 

なんとなく書きにくくて避けていたこととして、少し前にレポートのコンクールのようなもので賞をもらった、ということがあった。応募するだけで参加賞として数千円もらえるようなもので、資金を使うために設けられてるのではと思う。就活の適当な自己アピールのような文章を書き、応募総数が10人にも満たないようなそれで一番上の賞を貰った。想像はつくだろうが賞金目当てで応募したため、困惑の方が大きかったわけである。家族にも言うほどではないと思って特段連絡もせず、ちょっとしてから伝えた。当然といっていいのか喜ばれ、祖父が亡くなったのはその後である。コンクールの件は祖父にも伝わり、病床でその文章を読むことを欲していたらしく、わざわざ印刷したものに目を通していたという。メールを介して言伝された感想には、生きる希望をもらったことや才能がある云々とあり、それが最後に受け取った言葉になった。特に強い思い入れのあるわけでもない文章が重みを持ったものになったことには戸惑いがあり受け取りあぐねているところはあるが、こうして自分の文章が褒められるようなことはこれまでの人生で何回かあった。それにすがってこのブログで書きつづけているところがあり、またひとつそのような経験が増えた。

 

もうひとりの祖父についてはレコードプレーヤーを貰おうと思ったが、既に捨てたらしくラジカセを譲り受けてきた。CDを入れて止めずに最後まで再生する経験はパソコンだけだと意外としないので嬉しく。かつて通っていたTSUTAYAに行ってレンタル落ちのCDを買ったりしたので、聴いたりしようと思っている。

 

正直どちらの経験もあまり実感がなく、今もそうである、葬儀や亡くなることについては1月にも書いたので深くは書かないが、夫婦の片方が亡くなったときに喪主がもう片方なのはすごいと思う。血のつながった人々がたくさんいて集まる中で、最終的に弔うのは血のつながっていない他人というわけである。血のつながりって重要ではないのかとか、ここから色んなことが引き出せるのだろうけど、とりあえず不思議で強固な何かを見た気がした。

 

私の家には神棚があり、小学生くらいのときは毎日手を合わせるのが家族の習慣だった。別に宗教色が強いわけでもないため、今はそうでもなく、ことあるごとに手を合わせている。当時はみなが元気で世の中が平和でありますように、と呪文のように唱えていたのだけど、あるときそれもどうなのかと思った。人はいつか亡くなるし、だんだん元気でなくなるし、世の中にはどうしようもない事故や災害もある。そこでみなが元気であるように、自分が何事もないように、と願うのは欲張りすぎるのではないか?と中学校くらいのときに思って、以後お墓参りも初詣のときもそうは思わなくなった。ただただ何かそういう存在が私たちを見守ってなんとなく良いと思える日々を過ごせますように、みたいなふんわりしたことしか考えていない。ただそれでも、もう今年は葬儀に出るようなことがないといいなと思う。

 

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