本をよく読む期間と全く読まない期間が不定期に切り替わってムラがあるので、今年の2月くらいに読みはじめて二章まで読んだ後しばらく放置→今また読み直してついに読み終わったというちょっとややこしい経緯あり。端的に言えば難しかった、分からなかったということになるのだけど、その掴めなさこそがこの作品なのではとも思う。感想を書くのは難しいけれど、少しずつ書いてみる。
帯には「野心的思弁SF」とある。思弁SFというのは聞いたことはあったけど、読むのは初めてだった。思弁小説、というのはじっくり考えて語っていく物語というくらいの認識だったので今調べたらだいたいそうだった。この小説も一人称の語りの中で思考が繰り広げられていく。その思考は主にいなくなった先輩のことや友達についてなど身の回りの出来事だが、それらすべてが主人公であるセイの実存や進路に対する悩みと言い換えることができるだろう。セイの思考は内省的で、自分の考えていることを理解したり疑ったりしながら何かを掴もうとする。その過程でたくさんの知識やモチーフが登場する。それらは主に生物学の知識だが、それに限らず文字の成り立ち、アンビグラム*1、クッキークリッカー、パソコンのスクリーンセーバーなどなど雑多とも言えるモノたちがある。この羅列を衒学的であると捉えることもできるかもしれないけれど、そうは感じない。それは思弁小説としての文体、それらがつながってひとつのぼんやりした全体像を形作るからというのがあると思う。
文体について、思弁小説であるゆえに内容の大部分はセイの思考である。ゆえに読んでいるうちに自分がセイになったような没入もできるし、あるいはあまりに詳しい知識から作者自身が一人称を借りて語っているようにも思えてくる。この揺らぐような感覚が面白いし、そうして没入できるのは滑らかな語りにも要因がある。言ってしまえば内容は哲学書のようなもので、だいたいそういう本は一文が長かったりで読みにくい。しかしこれは文体の滑らかさ(こうとしか表現できないのがもどかしい)があるので、わりとすらすら読めてしまう。内容を厳密に理解しようとしなくても読めてしまうので、詩を読んでいるような気持ちにもなってくる。哲学書をぱらぱらめくり、いたって不真面目に目を滑らせながら読み、響きや内容がかっこいいなーとだけ思う……みたいなことを私はたまにする。そういう風に楽しむのが許されている小説、みたいに思う。具体的な特徴を強いてあげるならばお硬く見える文章の中に比喩や擬音が散りばめられているところだろうか、それらがあることで上述したような雰囲気ができているような気がする。少し長いけれど、以下に引用した部分はこの段落で述べたような特徴があるのではないか。
思弁服(ルビ:ミミクチュール)。可塑性のある担子菌(ルビ:たんしきん)類/補助計算資源としての粘菌(ルビ:ねんきん)/それらを監視する繊維状センサー/分散的に制御する散在神経系コンピュータ/微弱な電流による担子菌・粘菌への入力を行う発電素子の主に五つから成る、思考や他人との接触などを受けて衣服の形状が変化していく――いわば、模倣子(ルビ:meme)を媒介する衣服。
入学の際にひとりにつき一枚支給されるそれは、三年間の共同生活を通じて、ひとつの生態系を形成する。触れ合うことで模倣子を交換し、やがてその動的な平衡へと落ち着くことになる形状の群れを、わたしたちは育てている。
考えがまとまらず、自分がいまどこにいるのかを、ふと忘れそうになる。あるいは、普段は意識されずともただそこに居続けることのできるはずなのに、それを瞬間ごとに参照しないことには、ほどけて再び元の形に戻ることができなくなるかのような気配を感じている。
形があって、どれだけ触れようとも崩れてしまうことのないものを信じている人がいる。それが救いのための機械としての目的を持ってしまうことを恐れて、形を与えようとしない人がいる。幽霊と非 - 幽霊というパラメータが存在してしまうということ。しかし、ほんとうの幽霊はそのような否定から生まれるのではなく、パラメータの欠如したところから湧き上がってくるのではないだろうか。
p204,205
最初の段落にある「補助計算資源」「散在神経系」のような単語を丁寧に調べて読んだわけではないのだけれど、後に続く「考えがまとまらず」のような段落が続くことでひとつつづきに滑らかに読めるような。もちろんここだけでなく全編にわたってこのような文章であるのであくまでランダムに引用したような面があるけれど、この部分の「考えがまとまらず」の段落が全編のなかでも特に好きで、けっこう最近のいまの自分が生活の中で感じているような不安を言い当てられたようだったからである。
そして「ひとつのぼんやりした全体像を形作る」という点について、上に述べたように語り手の思考は「何かを掴もうとする」ように色んなものをつなぎあわせながら動いていく。同時に作中の時間も入学から卒業まで過ぎていき、先輩の行方や友人関係にも変化が見られる。出来事の顛末を追って楽しむことと、追いかけた思考が最後に結論を掴むまでの過程を楽しむことの二重の楽しみ(ふたつは相互に影響しているのでひとつともいえる)がある。出来事の顛末については布目先輩の正体?の意外性であったり、間(アイ)への思いの決着やちょっとミステリ的な要素、またはしーちゃんだったり各々のキャラクターが楽しい。担任の明庭先生はつくみず作品に登場する白衣を着た女性のイメージで読んでいた。
そしてTwitterで「「ここに書いてあることはここに書いてあるような書き方でしか表現できないような気がして」いると書いたのは最後に掴む結論についてである。これを国語のテストみたいに本文から抜き出そうとすれば「幽霊の幽霊」ということになる(と私は思っている)。幽霊という単語はこの作品においてキーワードとして冒頭一行目から最後の数ページにまで繰り返し登場するわけで、そうして得られた結論の中にも幽霊という言葉がある。うまく言えなくてもどかしいけれど、読者が主人公と一体となって最後に辿り着いた結論が「存在しないことそのもの」になるというのは奇妙な感覚がある。
また触れておきたいのはこの作品が性別を規定しない愛を描こうとしたことで、それは難しいことだったのではないかとおこがましくも想像される。このことを考えるのは百合SFという言葉が数年前にもてはやされたりしたこと、そして作者の青島氏も「百合文芸サークル《汽水域観測船》」等で百合を扱っているということにある(過去の「いなくなった相手の煙草を戯れに吸ってみる百合アンソロジー」を読んだことがある)。この文脈に引かれたので表紙をみたときに百合かと個人的に思っていたのだが、これはそうではない。作中では「倫理的生活環模倣技術」により「肉体の性が環境に応じて変化するひと」もいることが述べられており、主人公のセイもまだ性別が規定されていない。生殖に性別が関係しないようになっているゆえ、作中でも性別について言及されることはない。この設定から百合、しいては性愛についてのある立場・在り方をこの作品がとろうとしていることが分かる。ある立場がどのような言葉に分類されるか私の知識では分からないし、言葉にはできないのかもしれない。この話題について触れるのは難しくてしどろもどろになってしまうけれど、この小説はそのような設定のまま関係を描いて物語を成立させているところにもすごみがある。
この文章の中で数回うまく言えなくてもどかしい、ということを述べたけれどそれこそがこの小説の特徴ともいえるのかもしれない。言葉で表そうとすると逃げてしまうような何かを、それでも言葉で表そうとする葛藤こそが文芸の醍醐味のひとつではないかと考えたことがある。幽霊、愛情の形、命の在り方、この小説をうまく言い表せないのは、水を掬っては指の間から落ちるような絶えない運動をそのまま写し取っているからではないか。難しかった、わからなかった、と冒頭に書いたことへの言い訳のようだけど、でも私はそう思う。そしてそれを構成するのが決して激しくはない、ミニマルな登場人物たちの学生生活と生物学の知識たちであるというのも良い。
以下自分語りだったり作品以外の関係ない話
そもそも『私は命の縷々々々々々』は刊行が一年ほど前で、2024年の頭頃にいま話題の地雷グリコと一緒に買った記憶がある(そしてその地雷グリコは読んでいない)。そうして読み始める前にあとがきを見ようとする悪癖からパラパラめくっていたら、People in the box「ミネルヴァ」が参考文献にあがっていて興奮したのだった(「かけがえのあるたったひとつになりたい?」……)。もともと日記をちょっと拝読させてもらっていて、多少好みが被っていそうで、それならばこの作品にもきっと共鳴する部分があるんだろうなという気持ちが、この作品を難しく感じても読んでいきたいとなる原動力になっていたと思う。
そうして読んでいくと参考文献としてはあがってないけどKAIRUI『海の名前』を全体から連想するようになり、本当に好きなアルバムだから嬉しかった。第三章の最後の一行とかびっくりした。冒頭で2月ごろに読み始めたと書いたのだけど、たまたま同じタイミングで東京に行ってKAIRUIさんのdjを生で見る機会があった。それはとても印象深い体験で、そのときTwitterのつながりで足立区生物園に行ってちょっとだけ魚を見た。読みながらそこらへんが繋がる感覚もあってよかったのだった。思い出して調べると『海の名前』はnoteの過去の日記でも言及されてたし、同じ文章内で月あかり研究会『宝石の降る夜に』にも触れられていたのが嬉しかった(こちらも本当に好きなアルバムのひとつ)。
今年はユリイカ長谷川白紙特集に寄稿されていた文章「『エアにに』言葉のオブジェクティブティ テクスチャの豹と歌詞空間の庭を作る」も読んだのだけど、そこでもエビのビスクについて触れられていたので小説と合わせてエビが好きなことが分かって面白かった。もともと長谷川白紙氏は好きだし意味から離れて言葉について考えることで偶然に面白い組み合わせができたり、みたいな試みは自分も好きでそこが文章になっていてよかった。この感想を書くにあたって「いよわの惑星 合成音声の化石化はいかにして(不)可能となるか」が寄せられているユリイカいよわ特集を自分がまだ買ってないのは嘘すぎる!と思ったのでそれも買って読んだ。思えば庭だったり惑星だったり一見関係ないようなものを題材と引き付けて考える批評というのは上で述べたモチーフのつながりにも共通するのだと気付ける。
いよわ氏の曲が引用しあうことによって重力を形成して惑星として見ることができるというのは面白く、さらに私は学校へのノスタルジーについてよく考えているので惑星が『映画、陽だまり、卒業式』における学生生活いわば青春時代のアナロジーとしても見えてくる!というのははっとした。登場人物が参照し合う関係のようにも、ひとりの人間の学生生活のようにも聴けるあのアルバムって確かにいよわ曲そのものの構造と似ている。
>キャラクターソングって基本的にひとりのために作られた歌として存在していてその人をすべての音が祝福してるみたいだから美しいかもということを考えた
キャラクターソングって基本的にひとりのために作られた歌として存在していてその人をすべての音が祝福してるみたいだから美しいかもということを考えた
— 遺失物届 (@arudanshi) 2024年10月14日
前にこんなツイートを自分でしてからこれっていよわ曲のことかもしれん、などと考えていた。じっさい「きゅうくらりん」はイメージソング的な側面を持つし、キャラソンも依頼されて作ってるわけで、でもさらにいよわ曲がいよわ曲そのものキャラソンみたいなところがあるとか、あるいは一千光年がボカロ文化そのもののキャラソンだとするとなんかもっとすごいのかも!といったことを思ったりした。いつのまにか全然関係ないことを書いていた。おわりです。