食事について、一汁三菜がいいんだろうと思ってそうするようにしている。白米とインスタント味噌汁があり、納豆か豆腐を買いだめしておいて自分でもやしナムルとか煮物とか作れたら作る、こうすると主菜以外が埋まり、あとは冷凍餃子とかにする。この主菜をラーメンや弁当にしたりして、台無しにすることもたくさんしているし、ちゃんと一汁三菜になるのは週に半分くらいしかない。主菜のバリエーションが近くのスーパーは乏しい。そういう点で業務スーパーの冷凍コロッケとかフライを羨ましく思うようになった。やるなら地味な惣菜やコンビニの魚になるのだけど、刺身以外の魚はなんとなく敬遠してしまうし、がっつり食べたい欲を常に抑えきれないから、だいたい冷凍から揚げ・餃子になってしまう。
コンビニの選択肢としてローソンがいちばん都合がいいのだが、ちゃんと食事として利用してみると、あまり惣菜がおいしくないと思うようになった。オモコロチャンネルでかつてそう言われていたバイアスもあっただろうけど、けっこうそうではないでしょうか。食えないとかではないが他二社と比べるとうーんというような、何回も買っては後悔したので、ローソンオリジナルに関しては以下を買うことを誓いたい。
・おにぎり・パン・スイーツ(スイーツは高いがこれはちゃんとおいしい)
・他企業が作っているもの(一部麺の冷食は日清が作っていたり、あとは無印良品やホルモン鍋もある。)
・千切りキャベツや納豆など調理をする前提の食材
少し前にセルフカット、暇がなくちょっと不快な長さであった髪を自ら切るのを試みた。幼少期に家族がやっているのを見たりしたので、多少身近な概念だった。いざやると思ったより感触が生々しい。鋏の入れ方もあるのだけど、サクサクかと思いきやザクザクとなる瞬間がたまにあり、身体の一部であることを実感した。セルフカット、と書いて読んでいる人はどのような印象を抱いたか分からないが、この名前も面白く、ヘアーという言葉は自明に省略されている。そのまま訳すと自己切断みたいなもので、髪ってけっこう自己の一部だから、たまにイラスト等で見かける他人の長い髪を切るような描写って生々しいと思った。
「そのころには生きてないかもね、○○(話題の中心)はないかもしれないけどね」みたいな冗談がよくあるけれど、あまりピンとこなくて、だってノストラダムスとかあっても結局生きているから普通に続いてるんじゃない?と思ってしまう。ただの手ごろなオチの付け方だから、これはマジレスになるんだろうけど、真剣に考えるとそうなるし、終わるよりも続いていることのほうが怖いかもと最近思った。例えば自分の人生なら、先の可能性として、死んでいる・いまより良くなって続いている・いまより悪くなって続いているの3つがある。どれくらい先かにもよるが、いまより良くなって続いているのが一番よいだろう。未来がどうなるかは分からないけど、最近見聞きした色々を踏まえて、残りのふたつだと、悪くなってだらだら続くのって嫌かもと考えていた。
成人の日があって、なんとなく数年ふれてなかったけど、私は成人式には行かなかった。会場が家から遠くて前日の同窓会も顔出したしいいかと思ったのと、延期の末の開催で自粛ムードなのもあった。現況確認のコーナー。去年はすかしていたのか、忙しかったのか、誕生日やクリスマスなど節目のイベントをあまり自分で祝えなかったと思う。クリスマスケーキも食べなかった。今年はもっと何かを祝えるようになりたいし、他人の誕生日にリプライするのも漏れがあったら怖くてやめていたが、そういう行為って自分のなかのありがたみを醸成していくものでもあるのかもしれない。のでしたい。前か本か後かはぼかすけれど、2025年は厄年だった。でも人生の決定的なアクシデントはひとつかふたつくらい、それも些細なもので生命に関わるような事態はなかったのでよかった……と書いていたら10年ぶりくらいにちゃんと揺れる地震を体験して驚いた。2026年に入ると20年代が後半に入り、同時に私の20代もだいたい後半に突入するらしい。5年というスパンはこれまでの人生でも当然そうだったのだけど2030年までに私生活でも世間でも決定的になにか変わるんだろう、といまはただ怖いです。あと去年の年始に書いた「2025年にしたい100のことリスト」の振り返り記事が次になる予定です。
最近あったこととして、DJイベントのVJで自分の音madの映像が使われたというものがあった。自分の音mad(reaper直出力)が/音抜きで/club JOULEで/CCS OSAKAで/momone&dj twinturboのvjとして/わりと盛り上がる場面(未公開のリミックス披露)のドロップで、流れるというのは変な体験だった(それをTLへ流れてきた動画で知って文字通りスマホを投げたのも変だった)。CCSもDJ両氏もどちらも怖いほど馴染みのある方々で、その演出の一部になれたのは畏れ多くもありがたい。あまり堂々とするのも色々妙な気持ちなので何の動画かとかは触れないでおく。しかし別のつながりで話した人に音madを見てましたと言われたり、友人から「別の友人が私の音madの話をしていた」と聞いたりということはこの数年であった。嬉しいとかいうより、それはちょっと自分がなりたかった像のひとつでもあるのかな、と気付いた。
にじさんじ所属のVtuberである雨森小夜、鈴原るるが4年越しの復帰をしていた。両氏とも活動当時から存在は知っていたけどチャンネル登録してなかったくらいの距離感だった。雨森氏はちょっと歌ってみた動画を見たことがあって、あと活動頻度がそんなに高くなかったり?敬語の感じに勝手に親近感を覚えていたくらい。鈴原氏はとにかく配信が長いので朝起きてもやってるなとyoutubeを開いて当時思っていた。復帰配信を見てみて、背景事情は変わっても、それらは変わっていないようだった。いつでも戻ってくることのできる場所があり、そうしてみながその人のなにげない振る舞いに触れて安心する、という風景には尊いものがある。
敬語のツイートをして、朝まで配信をして、それを見て戻ってきたと思ってもらえるようなこと。自分語りにはなるのだけれど、そんなふうに誰かにとって安心してもらえる存在になりたいと思う。自分の中でも形になっていないので言葉にしにくいが、それは対人関係や人格的なものではなくて、久しぶりに自分のTwitterを見に来た人が変わらずツイートしてると思って貰えると嬉しいというような……かといって作風が欲しいという話でもないので難しいが、存在になりたいというより、そういうインターネットの繋がりそのものを尊いと思うみたいな話なのかもしれないです。
一方でプラットフォームの話をすると、Twitterでは関わりのない人がおすすめタイムラインに出てこない傾向がここ1年くらいで増えてきている。おすすめタイムラインもまれに本当に興味のないものが流れる。フォロー中だと混沌としすぎている。リスト管理をTwitter内部の機能だけでするのは厳しく、外部サービスも使えなくなっている。プレミアムのためにお金を払うのは自分の信条に反している。Twitterのつながりを、違うクラスの生徒みたいな、本の奥付に刺さった貸し出しカードに書かれている同じ本を読んだ人の名前みたいな、とかつて例えたことがあったのだけど、そういう1週間に2-3回見かけるみたいなものをここで実現するのは結構難しい。せめて能動的にフォロー中やffのリストだけでも頑張ってたまに見にいく、くらいが善処かなーと思ってやっている。
音楽のいろいろ いよわ「ミジ子の恋」「散歩の邪魔」について、作者公表がされるまえに聴いてはいて、いよわ氏だと分かったとき、これが他の人だったらよかったのに、みたいな感情が来ていた。そんな気持ちは初めてだった
aiko「自転車」KIRINJI「Drifter」を最近よく聴いていて、どちらもスローテンポなバラードだけれど、口ずさみたくなってギターでコ―ドを弾こうとするとけっこう難しい。でもちょっと弾きやすいようにいじることはできて、ちょうどいい難易度だなと思っている。前々からカブトムシとかエイリアンズも触ったことがあり、コードチェンジが頻繁・密度が高い・分数コードが多い(=コ―ド進行が複雑、とする)のはよく言われているが両者とも特徴である。自分のなかではコ―ド進行が複雑であることをすぐドタバタ感へ繋げてしまうけれど、あれらの曲はその複雑さを感じさせず、たとえば同じメロをリハモしたり、情感の豊かさへたっぷり寄与している。
aiko「自転車」は「気持ちは昨日今日毎日変わって行く/明日あなたはあたしのことをどう思っていてくれるだろう」という歌詞が印象的で、そういう経験がないので共感はできないんだけど、なんか気持ちって確かに毎日変わるからそれに懸けるって怖いよな……というよさがある。失恋したことないのに気持ちを揺さぶられるものがあり、氏の曲はみんなそうだからすごいのだろうな、ちょっとずつ聴いてみたい。
mint tears(以下ミンティア)ds太鼓の達人フルコンに年末からずっと挑んでいる。この日記を書いているときに不可1まで到達したが、フルコンボはなかなか見えない。これをお金かけて筐体でやって、全良を目指すような人が信じられないが、逆で全良を目指すからフルコンできてたりするのかな
あとみんなゲームってどういう気持ちでやってるのか、音ゲー配信とか見ればわかるんだろうけど怠惰すぎて見る気にならず 逆に気が散っていたほうが手が自動で動くからいいのか?と思って関係ない音声を流しながらして、うまくいかず、ちゃんと考えると頭の中の思考と目の前の譜面が混線するから、うまくいかず、最初に戻って、を繰り返している。これはdtmでギターとか録音するのも同じで、逆に不謹慎なことを考えながらやるみたいなジンクスさえ自分のなかにある。ミンティアでは関所を自分の中でいくつか設定していて、最後に近づくにつれて心臓バクバクでいつもできてたとこができなくなったりする。これはあるあるかもしれない
同タイミングでSASUKE2025があり、テレビがないので後日youtubeで見た。暇つぶしコンテンツとして1-2年くらい前からちらちらyoutubeを見て、あー落ちてる落ちてるとか冷ややかに思うくらいで歴史も知らない、しかし、宮岡氏だったり中島氏だったりの結果を見て、ミンティアの経験と重ねていた。宮岡氏と中島氏は初出場からすぐに好成績を残し続け、今回ついに完全制覇が見込まれていたのだけど、これまで難なくクリアできていたところで落ちたのだった。1年かけて準備したことがあっけなく終わること、私は全然スポーツもしてなくて物語にも触れられなくなり、自分の趣味もじりじり進めるものだから、久しぶりに心の底から勝負事のシビアさを実感した気がする。死んだら生き返れないんだなと本当に関係ない瞬間に気付いてゾッとすることがたまにあるのだけど、それと同じゾッとする気持ちがあった。
SASUKEで起こっていることは、私のミンティアよりずっと壮大なスケールの話である。何回も挑める音ゲーさえじりじりとクリアが見えてくると本当に気が気じゃなくなるが、それが年に1回しか挑戦できないのだ。そのメンタルの強靭さって想像がつかず、楽しむ余地なんてないように思える。そのぶん目標を達成出来たら気が狂うほど気持ちいいのだろう。さらに、失敗しても次がある。きわめて単純化して言い切るなら、たとえば受験は1回しかない。失敗したとしても、それも運命だと進路を決めることができる。でもスポーツの世界には、そういうことがないように見える。生きている限りずっと挑戦できる余地が残されているような。悪い結果で終わっても、それでも続いていくということは単なる救いではないように見える。私のこの先の人生にこういう絶対に失敗できない大一番の予定って今のところなくて、だからここでミンティアに入れ込んでるのかなと思った。でもいまのところ継続的なモチベはない(というか諦めかけてまでいる)。
ここまで書いて気づいたけどあけましておめでとうございました。