nikki_20220329「読書日記」

 

 ワクチンの副反応で寝込んだりしたことを経て複数の本を読み切ったので、感想を羅列するだけの日記です。長いです

 

 

 

 


永井均「これがニーチェだ」

 

 永井均氏によるニーチェ論です。周囲で読んでいる人が複数観測されたり、新書ならすぐ読めるだろうという先入観から読みました。時間はかかったし難しかったです。でも解説書抜きで論理哲学論考を読もうとした時のように完全に分からないというわけではなく、ゆっくり読んだら理解できる文章だと思いました。

 

 第三空間は理解できたのだけど、第一空間と第二空間についてはよく分かってない。第一第二と第三の間でブランクを挟んだこともあるかもしれない…。最終的に到達した第三空間、永遠回帰のなかで肯定する姿勢というのはおおよそ元々僕がニーチェに持っていた認識とあまり変わらなかったです。だから第一と第二がわりと斬新な解釈なのかもしれないけど、理解できていない。

 

 それでも第三空間の姿勢はかなり難しいことだと思うというか、それ自体矛盾したものを孕んでいることが言及されていたりはする。最終的に達した結論はすごい「「「究極」」」」みたいなオーラを放っているなあ、と思ったのですが「その側面を見逃してしまえば、第三空間はただ神々しく輝かしいだけのずいぶんとおめでたいものになるだろう。」と203ページにあるように、なんかすごいなあくらいではまだ「おめでたい」認識なのだろうと思います。

 

 

 

isitsutbustu-todoke.hatenablog.com

 しかし自分が考えていたこととおこがましくも繋がっていると感じた部分もありました。この日の日記で言及した箇所も然りです。

 

 

 

 

生きていくうえで、自分の中で価値観や考え方というものがだんだん形成されていく。だけどその最も根元にあるものは何なのだろうということをふいに考えていた。自分の話ではなく普遍的な意味で。さながら何もない砂漠の状態から自分の考え方という家を建てるとき、最初に立てる一本の支柱は何が支えになっているのだろう。そこにやはり論理的な根拠などなく、こうありたいという感情が最初にあるのだろうか、などと思っていた。

nikki_20220320「妹と卒業」 - 遺失物取扱所


 この日の日記で書いたことだが、近しいことが185ページで述べられていた。「自らがこうしたい」という意志、それを持とうとする意志、それを持とうとする意志、、、と辿ると無限ループに陥る。意志とは自然と湧き出る意欲であり、起こすのではなく「起こる」ものだとある。そこから「第三空間」というものが始まるらしい。

 

 誰にも、意志的に意志を持つことはできない。もしできるとしても、意志的に持ったその意志を持とうとした意志の方は、もう意志的に持つことはできない。それができるとすれば、無限背進に陥るからである。

 

 するとどこかでわれわれは、起こってしまった意志を持つことになるだろう。いまそのようなおのずと湧きおこるものを、同士の不定形を名詞化した「des Wollen」であらわす(ときに「意欲」と訳される)とすれば、どんな自由意志も、どんな強い意志も、意思(der Wille)は、結局は湧き起こってくる意欲(des Wollen)にすぎない。それは起こすものではなく起こることなのである。(中略)このようにして、起こすことと起こることの区別自体がもはや維持されなくなったとき、第三空間が始まるのである。

 

 日記で僕が述べた問いの解答ともとれるし、「それがそれとしてそこにただある」ということを認めることは確かに永遠回帰のなかで肯定する姿勢につながるのだなと納得していた。

 

 

 

 

 ここでニーチェの主要な敵は同情である。同情の何がニーチェをそれほどいらだたせるのか。「最も深く、最も個人的に苦悩しているとき、その内容は他人にはほとんど知られず、窺い知れないものである。そのようなとき、人は最も親しい者にさえ隠された存在である。(中略)だが、苦悩する者と知られたときには、苦悩は必ず浅薄な解釈をこうむる。他人の苦悩から、その人に固有の独自なものを奪い去ってしまうということこそ、同情という感情の本質に属することだ。――『恩恵をほどこす者』は、敵以上に、その人の価値や意志を傷つける者なのだ。」(『知識』三三八)。これがニーチェが同情を忌避する最も深い理由である。私は、この主張にもかつて深い真理を感じたし、いまも感じる。

 

 敵は私を理解しようとなどとはしない。だから、私の固有性は敵からはいつも守られている。だが、同情者はちがう。彼らはいつも自分自身の知性と感性を携えて私の内面深く入り込んで来て、私を理解という名の暴力でずたずたにしてしまう。同情されたとたん、私はそのことで殺されるのだ。だが、言葉を持つ以上、原理的にはそこから逃れるすべはないだろう。だから、ニーチェの最も根底には言葉を語る主体にさせられることへの屈辱感があるに違いない。

 

 同情をニーチェは敵とみなしていたという話なのだが、これは僕が悲しいニュースなどを見たときや、周囲で何かに悩んでいる人を目にしたときに感じるもどかしさとかそのものだと思った。言葉を持つ以上、どうしてもそれが絡んできてしまう嫌さというのはある気がする。以下の本の感想でも僕は同情のようなものを述べるのですが、その前にここは言及しておきたかったです。いまのところこの本のなかで一番納得できた部分でしたが、読み返してほかの部分を理解していく必要があると思います。それでも分からないなり、時間のあるときに、こういう本に目を通しておくのは有意義だったかもしれません。

 

 

 

 

 

二階堂奥歯「八本脚の蝶」

 

 若くして自殺した女性編集者である二階堂奥歯氏がwebに残していた日記が本になったものです。日記なんだけどアフォリズムというか一行詩みたいなのがたくさん入っている本で、唯一無二の奇書っぽさがある。

 

 どこからどう読んでもよいのだけど、通して読むことですごいなんともいえない気持ちになる。2022年3月29日の午前11時のいま、それに襲われています…。人生を描いたノンフィクションはたくさんあると思うのだけど、言葉で綴られた人生というか彼女の在り方が常に言葉と共にあったゆえ、本がそのまま彼女であるかのように思えてきます。すごいですね。

 

 亡くなった人の日記を本にすることに対する疑問はあり、主観で語るなら日記の言葉たちが本にして残してほしいと訴えてくるようなエネルギーを持っていると感じたのだけど、これは僕の感想でしかない。実際二階堂氏がどう思っているかは分からない。

 

 

 

 

私を読んで。
新しい視点で、今までになかった解釈で。
誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。
行間を読んで。読み込んで。
文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。
解釈して、読み取って。
そして教えて、あなたの読みを。
その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。
そうです、あなたの存在で私を説得して。
2002年10月2日(水)の日記より

 

 日記というのは記録だし時間に沿って出来事や思考を描くと、当人が意識せずともそれは物語になってしまう。つまり彼女の日記は物語として読むことができ、上にあるように時々それを意識したような語りが出てくるので見透かされたようになり、びくっとする。でもそう解釈することは暴力的でもあり、そしてこうして書いている日記もそう読まれている可能性があるんだなあと思ったりして、まあこれによって何か具体的な教訓などが導かれるわけではないのだけど面白い。

 

 

 

 

 好きな表現はたくさんあったのでかなり付箋を貼ったのですが、下記に抜粋したような日記がたくさん並んでいた。

 

「みんな忘れてしまいがちなんだけど、この世界は本当はとてもうつくしいんだ。」
朝、電話でそう言った人がいた。
「ええ、そうですね。」
と私は答えた。本当にそう思ったから。
うつくしいこの世界はとてもおそろしく、さみしい時間はとてもしあわせだ。
2002年9月16日(月)の日記より

 

遠くから。
夜。雨の音。声。届く。
雷が落ちる。
皮膚。エレキテルが夜気に漲っているのですねだから私はこんなに。
(いま私の皮膚は部屋の空気の動きさえ感じることができる)。
2002年10月15日(火)の日記より

 

 

 

 

 余談めいたものになるが、本には生前彼女と関わりのあった人が複数寄稿している。そのなかでも歌人佐藤弓生「二〇〇二年の夏衣」にこのような記述があった。「ともあれ会のメーリングリストで「微積分短歌」(数名が交代でひらがなをひとつずつ付け、三十一文字に達したところで歌意を"解読"するゲーム)をやったり、」

 

 まず、佐藤弓生氏は直前に読み切った「はつなつみずうみ分光器」にのっていた歌人の方だったのでつながりが嬉しい。「はつなつみずうみ分光器」はあとで述べます。

 

 そしてよく見るオモコロチャンネルでやってる「詠み人知らず」を歌人もとうの昔にやっていたという事実に一番震えていた。「一文字ずつよせてみんなで歌や句をつくろう!」という試みは既に誰かやっているだろうと思っていて、まだまだ辿れば平安時代にあった可能性もあるが、とりあえず歌人の方々がそれをやっていたと思いがけない本から知ることができた、その事実に興奮してました。

 

youtu.be

 

 かつて泉鏡花「外科室」を読んだとき、米澤穂信「身内に不幸がありまして」とのつながりに気づいて嬉しかったのだけど、こういうもののために本を読んでいるところがありますねという出来事だった。

 

 

 

 

青島もうじき 丸井零「いなくなった相手の煙草を戯れに吸ってみる百合アンソロジー

 

 1月の京都文フリで購入した同人誌で、タイトル通りのものです。文芸部が書いた小説を読んだりはあったのですが、大人の方々が書いた同人小説を読んだことがなかったので、そこ含みで興味深い体験でした。収録作のうち「Me In The Room」についてはここでいちど述べていました。

 

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  全員つよかったです。いなくなった相手の煙草を戯れに吸ってみる百合、と聴いてパッと思い浮かんだのをやっていたのは「わたあめとレモン水」だった。明確な名前など登場しないまま輪郭を描き出していくようなふわふわした感じでした。

 

 次が「燁煙」で、最初はなんとなくそのままだと思ったら、途中から時間と舞台が移って世界が広がっていく感じでした。「いなくなった相手の煙草を戯れに吸ってみる」というお題を伴ってはじめて結末が沁みてくる感じがして巧かったです。

 

 それでいうと逆に「Me In The Room」は一番ひねくれていた(いい意味で)というか、シチュエーションを外側から観測するというメタ的なものだったのかと通読して感じたりしました。「懐」も王道のような感じがしつつ、結末の加速感というか切なさと解放感みたいなもの、残り本数で話が区切られつつ煙を消して話が終わるのが綺麗でした。「春霞」「スモーキー・マウンテン」はインモラル?奇抜?さを伴った設定(主従の百合?や退廃的な世界)をお題を借りつつ描いているという印象です。面白く読ませていただきました。

 

 

 

 

次から歌集が連続します。

 

 

 


瀬戸夏子「はつなつみずうみ分光器」

 

 2000年以降、20年間の短歌の流れを紹介する短歌のアンソロジー。姉妹本である「桜前線開架宣言」は読んでいたのですが、知らない歌人の方々が大半でリストアップしたりしながら読みました。瀬戸夏子さん自身も歌人であり、人からすごい人だと聴いていたのですが、たしかにこれだけ主観に寄りすぎない評や時代の流れを書き出せて、なおかつ作歌の能力も評価されているのは力があるなあ、と思いました。以下ぱらぱら読みかえして好きだった短歌です。

 

 

だとしてもきみが五月と呼ぶものが果たしてぼくにあつたかどうか 光森裕樹
冬の影 わたしのあとで肯いてきみが革命を語ればいいさ 井上法子
美樹さやかに僕はなりたい鱗めく銀の自転車曳くゆうまぐれ 笠木拓
花器となる春昼後刻 喉に挿すひとの器官を花と思えば 佐藤弓生
もういいよわたしが初音ミクでした睫毛で雪が水滴になる 初谷むい

 

 

 


山階基「風にあたる」

 

 歌集。山階氏が僕とおなじ広島出身だったので嬉しかったです。とても好きというわけではないかもしれず、生活について皮肉るわけでもなく、俯瞰してしずかに肯定している歌だと感じました。

 

 

いままでの角度で液が出なくなる少しきつめに揺すらなくては

何がというのを語らず、行為だけ取り出すことで様子が想像されてシュールに感じる。

 

 

切り開くそばから白い紙パックぼくに中身を移したあとの

倒置になっていて、まず「白」が印象付けられてから「ぼくに中身を」ではっとさせられる感がある。「切り開く」と「中身」の身体性みたいなのも感じました。

 

 

バス停のようにぼんやり立っている夏のわたしの旅先として
その町にいくつも橋があることを忘れたらまた話してほしい

これらも好きでした。

 

 

 

 

雪舟えま「たんぽるぽる」

 

 おなじく歌集。星野源氏も読んでいるらしく、吉澤嘉代子氏が解説をよせたりしている。かわいかったです。なんというかこちらは喜びというかお茶目さ、あと現実から一枚隔てたおとぎのような世界を意識しているようでした。おそらくそのような世界観があるのだと思います。「はつなつ~」によると他の歌集もあるらしいので気になります。以下が好きでした。

 

 

セックスをするたびに水に沈む町があるんだ君にはわからなくても
面接へゆかず海まで六時間歩いたという その海を思う
サイダーの気泡しらしら立ちのぼり静かに日々を讃えつづける

 

 

 

 

志村貴子青い花


 百合の漫画です。古典みたいに言われているらしいので全7巻を読みました。現実において女性同士が恋愛するということが真摯に描かれていてよかった。4巻まで読んだときに書きつけた感想が的確だったので抜粋

 

 

 

 

リアルさがあると感じました。

 

 

人間関係のリアルさ…普通にややこしくて把握するのに時間がかかった。許嫁だったり屋敷だったりの旧い制度も絡んでいる。 後述する百合の扱い方にも関係するが、別れた理由などが明確に描かれない。シンプルに目指す夢が違ったからとか、片方が不倫したからとかそういうのじゃなくてとても繊細な心の動きで分かれたり衝突したりがある。

 

描写のリアルさ…ギャグっぽいコマもあるが、顔ぐしゃぐしゃにして泣いたり、思いっきり暴れたりとか、極端にデフォルメされた表情とかがない気がする。自然な表情で心情が描かれている。全体的な絵柄としては繊細なかんじかつ、ラフな線というか

 

百合のリアルさ…例えば前に読んだ「徒然日記」では女性しか登場せず、自然と互いに好き合っている関係性が少しずつ発展していく様子があった。これはどちらかの批判ではなくただの対比として、青い花ではそこにある自明なものとしてではなく「女の人が女の人を好きになること」がリアルに描かれている、という印象を受けた。自分が同性愛者であることの自覚、とまどい、それを相手が受け入れてくれるのかという不安など。

 

 

 

 

 これは10年以上前の作品であり、旧い価値観がある。許嫁も登場するし、そういう制度と絡めてそれでも女性を愛することを選ぶ、あるいは男性との結婚を選ぶことなどが描かれていてよい。 複雑な人間(家庭)関係を整理して読まないといけないので頭を使うが、整理して書く作者の巧みさもあると思いました。

 

 

 

 

 いまの価値観からして、そして自分の考えとしても異性愛も同性愛も互いを好き合っている点で変わりはないと思う。しかし、この作品では女の人が女の人を好きになるということ独特の質感が描かれている。それは言語化できるようなものではなく、百合以外では取りこぼされてしまう何かに対して、真剣に向き合って描かれているという印象があり…。何でもかんでも百合って言うなよみたいなことを言われがちですが、そういう萌え萌えみたいなものではない、もっと繊細な何かですね。湿度というかそういう百合の質感を感じていました。

 

 

 

 

 ここからは全巻読んでからの感想です。

 

 僕は性転換ものが性癖にあるが、小学校のときからそうだった。それで図書館にあった「ぼくはおんなのこ」の冒頭だけ読んだことがあった。まあ多少のエッチさを期待して読んだのだけど、結構リアルかつ大人な話でよく分からなかったというか読むのを辞めてしまった。でもあれに通じるものがあるというか、なんか志村貴子の作家性は分かったかもしれない。

 

 あとタイトルが文学からとってきているのもおしゃれ 青い花もそうなのは知っていたが、劇中劇と絡めていくのも王道でいいですね。よかったですし、今後百合漫画をよむときにこの漫画のことは覚えておきたいなみたいに思いました。

 

 

 


おまけ

 

 ヱヴァンゲリオンを4話まで見ました。いちどミサトさんと分かれて再会し、いい感じに解決しているように見えるが、突然14歳の少年が人類の存亡をかけた戦いに放り込まれたという事実は変わらないし、可哀想だなという感想しかない。徴兵されるみたいで辛い。おそらく自分が人からエヴァパイロットとして信頼されている事実を知り、逃げ出した自分が情けなくなったのかもしれないが、それは突然戦いに駆り出される理不尽さや精神的負担には勝たないと思う。まあまだ父との確執など分かっていないので、どれくらい状況を理解しているかなどは不明だし、推察するには情報が不十分ではある

 

  客観的な作品の印象として、ロボットアニメを見たことがないので普通になんか嫌だなという感じである。副反応の熱のせいかもしれないが、いちいち30分尺が長く感じる。余裕で建物は爆発するし何らかが死ぬし、ディストピアというか疎開だったりの単語からは戦争を感じさせるし、そういうやりきれなさがある。まあ宇宙からの敵に対して理不尽さを感じてはいけないのかもしれないけど、これから面白くなるんですかね…諦めそうになっている。

 

 

 


 あとつくみず氏とめばち氏の画集を1時間くらい再読して唸ったりしました。どちらもまずかわいくて、つくみず氏の脱力感を伴った退廃的な思想が垣間見える感じ、めばち氏の軽やかな線にあわい色彩で描かれる儚さ、人生のバイブルかもしれないですね、、。

 

 

 

 

 こういう風に全然読まない時と読むときのムラが激しいなと思います。しかし一気にいろいろ吸えて余韻も濃くてよかったです。おやすみなさい。