ありがとうございます。確認遅くなりました。2年前くらいにしたことが人と人とを繋いでいるのがうれしい。今やったら変わってそうだけど、最近そんなにボカロを追ってないので視点が更新されていない説がある。自分がやったときのルは「ルスバンドライブ」(日向電工)だったのだけど、ナイトフィーバーのほうがポピュラーだ……。あとループスピナ(稲葉曇)をいま思いついた。全体的に2015-2020くらい(のほんの一部)が自分のボカロ観だなあという実感をいろんな場面で持つことが多いです。
最近はいろいろ、なんというかずっと一段下のギアに入ったような気持ちでずっといる。Twitterのいいね欄が非公開になったのは悲しかった。なぜ悲しいかとかはもうたくさん言われているだろうから改めて言わないけど、とにかく残念で仕方ない。なんでそんなことするんだろう。最初はすぐ直ると思っていたのに直らないので、悪い冗談が冗談じゃなかったようなときの気持ちでいる。
>Xにおけるブロックは情報の閲覧可能範囲が当事者2者のみであり、DM・私信に近い情報なので取り扱いに要注意だなという気持ちと、ブロックしてきた話をバラして何が悪いんじゃいという気持ちがあり、このたびfavが同じ情報公開範囲ファミリーに加入してさらに混沌としてきた
かもリバー @xcloche
鍵をつけなければおすすめによって見ず知らずの人にも自分のつぶやきが届く・勝手に押し付けられるようなSNSで唯一与えられた個人の領域がブックマークだった(フォロワー0の鍵垢もあるけどハックっぽいので除外)。そこにいいねする・されるのやり取りまでが押し込まれた。と上のツイートを見て気づいた(このツイートを知ったのもいいね欄だった)。どんどん孤立してくような、だから実質SNS内で他人のツイートを知るにはサジェストへ身を任せるしかなくなり、能動的な行為が制限されて自由を奪われている。
本をぜんぜん読んでないのでこういうときにぱっと思いつくのが伊藤計劃『ハーモニー』しかないし『虐殺器官』も読んでいない。連想したのは極限まで何かを制限される絶望と、完全に安心を保証してくれる絶望である。いまのTwitterはどっちなのかよく分からない。裏技を使わないと与えられた情報しか見られないが、それはなんでも自分にあった情報を提供してくれる安心ででもある(サジェストはゴミだが)ことを考えていた。つくみず『シメジシミュレーション』のあとがきには「物質的に極限まで制約された世界と正反対に、飢えることもなく何でも有り得るのに漠然とした世界」と『少女終末旅行』との「反作用」としてシメジが生まれたという記述があったのも思い出す。このふたつって反対のようだけど表裏一体だったりするのだろうか……。
アニメが苦手過ぎて追っていたユーフォの3期でさえ一気に見ようとしてずっと放置している。TVアニメ「小市民シリーズ」の第2弾PVが出ていたのを見て、このシリーズそのものについてまだ自分は分かっていないな、と思った。
まずPVそのものを見て受けた印象はちぐはぐさで、「小鳩と小佐内――」みたいなキャプションが出ているのを見て笑ってしまった。画面の色も語り口も暗いトーンな印象を受けるけれど、自分の中でそんなに暗い作品なイメージがないから可笑しく見えてしまう。そんな意味深で暗い画面が続いたあと、Eve氏の主題歌が入ってくると一気にラブコメっぽくなる。客観的な事実として、シリアスなトーンから主題歌が入って一気にワクワクしてくる構成がとられている。これはどんな作品の予告編でも使われる手法だ。珍しくはない。でもそれをこのシリーズに当て嵌めて行われると、自分のイメージと乖離して不思議に思う。それは自分が『春期限定いちごタルト事件』を比較的コミカルな作品だ、と思っていたからだろう。
そして春がコミカルな印象なのは小説のつくりからもそうじゃないか?と思う。あれにおいてひとつのサプライズとして設けられていたのは小佐内さんの本性であった。最初からシリアスなトーンで進めて最後に小佐内さんの本性を出しても面白くないわけで、やっぱり自転車が盗難されるまでは軽めに描かれている気がする。そして自転車盗難事件もそんなにシリアスではなくて、夏のラストのほうが事態も深刻でビターである。ただ冒頭に掲げられる〈小佐内スイーツセレクション・夏〉は明らかに面白いネーミングだ。「シャルロットはぼくだけのもの」「シェイク・ハーフ」も雑誌に短編として書かれたもので、軽く読める印象がある。つまりは夏の誘拐事件が起こるまではだいたい面白おかしく軽い雰囲気で進んでいて、誘拐事件で一気に肝が冷えるみたいなイメージが自分にはあった。だからアニメの描き方を見てそう解釈するんだ!という意外性があった。
映像のイメージを自分が違うと感じる部分と、自分のイメージを映像が揺さぶる部分がある。前者はコミカルだと思う自分と作品のトーンとの乖離で、カップが割れたり小鳩が声を荒げたりする場面や、後述するがラブコメっぽい描かれ方をしている部分だったりする。後者は主にお菓子である。いちごタルトが落ちている画は結構ショックだな……と見ていて思った。ほかにも下のツイートを見て思ったがお菓子を食べたり切ったりする描写って画にすることで意味があるように見えてきて、この作品におけるお菓子って演出の小道具として優秀だったんだ……と思った。お菓子以外だと小佐内さんが意味深な言葉を吐く部分とか。自分がお菓子たくさんのキュートでコミカルなお話♪に思っていたものが、映像になることでそうじゃないのかも、と気づかされる部分がある。もちろん演出の意図もあるのだろうけれど。
>たとえば、思い切り真っ二つにされるミルフィーユ。直線的である以上に、意味しか感じない。こんな切り方、することがあるだろうか。なくはないかもしれないが、ふつうに「読めば」、思い切りの良いこうした切り方に見出したくなるのは、怒りとか苛立ちとか、「断ち切りたくなる」ような何かだろう。
才華 @zaikakotoo
ラブコメっぽい描かれ方について、二人乗りしていたり主題歌からそんな雰囲気を感じる。でも私がこのシリーズの主題として考えていたのはやはり自意識の問題で、ふたりの距離はあくまでおまけみたいなつもりで読んでいた、ということにこのPVを見て気付いたかもしれない。ふたりがくっつくより、互いが狐・狼としての自分とどう付き合うかの話として見ていた。そう思うのは冬期を読んだ感想もあいまってのことで、あれは「結局いつものふたりなのでした、ちゃんちゃん」みたいな終わり方だったという気持ちが拭えずにいる。このアニメもふたりの距離にフォーカスするようで、そこも自分の抱いていた気持ちと噛み合わなくなる。だから結局あのシリーズがどういうものだったのか、自分の中で整理がついていないのだと思った。
でもそれはそれとして小佐内さんみたいなミステリアスな女の子に全部看破されてみたい、という性癖は中学で読んだときに植え付けられている。そうPVで改めて実感した。あとケルトみたいな音楽が劇伴で流れつつ主題歌は思いっきりポップだし、エンディングはまだ公開されていないけどバンドの曲を聴いた限りマカロニえんぴつあたりの雰囲気があったので、そこもどうなるんだろうというちぐはぐさがある。まあごたごた言いつつ結局見ないんだろうな。
交通量調査を最近よくやっていて暇になったときに思い出したどうでもいいことなのだけど、かつて赤川次郎の『ふたり』という小説を読んだことがあった。小学生のときに赤川次郎にハマっていた時期があって、といっても10個くらい長編を読んで終わったのだけど、そのなかのひとつである。交通事故で亡くなった姉が生き残った妹の心の中に現れる話である。妹にだけ姉の声が聞こえて、助言を受けたりしながら課題を乗り越えていくわけである。当時はファンタジーとして読んでいたけど、普通に妹が幻覚を見ているだけかもしれないな、ということを考えていた。ネタバレするとラストでは父が浮気をしていることが発覚して家庭が荒れ、妹は父を殺そうと包丁を手にしてしまう。姉が声で制止することで妹は手を出すことをやめるけれど、制止する一言をもって姉の声は聞こえなくなってしまう。なんというか死を受け入れられずに幻覚を見ていたと考えるとこれも納得できるなあ、と思いつつ調べてみると続編があった。大人になった妹の元に突然姉の声が再び戻ってきて、不倫関連で人が死んだりするらしい。よくわからないのでまた読みたいと思った。
小学校の教室で教師に当てられた人が次々に間違った答えを言っているとき、正しい答えを言いたくてそわそわしていた感覚を思い出した。でも中高と上がるとそういうことはなくなっていくわけで、それはだいたい能力が近い人と一緒になるからである。そういう優越感や、早く答えてそわそわしたくなる気持ちっていつのまにか失われたような気がする。いや誰もがそういうわけではなくて、別に自分だけ正しい答えを知っている状況でも答える気にならない人はいるだろう。ただ自分はどうやってでも答えようとしてしまう人間だと思うし、負けず嫌いなところがある。早押しクイズや脱出ゲームはそういう快感を求めて負けず嫌いな人が集まっているのかな、ということを考えていた。どうでもいいことばかり書いてすいません。
