nikki_20220311「幸福堆積」

 

 起きたのは正午ごろ、前回の反省を生かして30分くらい早く労働を始めると早めにあがることができた。仕事量がそこまで多くなかったのもあるのかもしれないが、よかった。3/11だった。はやく皆が安心して暮らせるようになってほしい。

 

 

 

 前にも書いたかもしれないが本当に読書などしておらず、強いて読んだものといえばネットプリント「第三滑走路」の13号だったり、以前の文フリで購入した本から青島もうじき氏の短編を拾ったり…。前者は数人の歌人が発行している短歌の機関紙的なものであり、といっても本ではなくA5の紙3枚ほど、しかし中身は170首くらいの短歌がある。コンビニで印刷して読んだ。中の人々がスペースをしていてそれを聴いたりしたのだけど、そこでも言われたように難解な歌たちではある。

 

 連絡をしてから首吊りをするのは発見してもらえるから ウ ル フ 青松輝
 密室劇 息を合わせて踊りだす入念な会話の始め方 森慎太郎
 過剰に恋は あっ 多少の崖なら登ってみせるこの軽トラで 丸田洋渡

 

 こういう一字空けして一見して関係ないようなものをぶつけるような短歌ってどうやって作ってる/読めばいいのかなと思ったりする(僕が知らないだけで理解するための文脈とかがある可能性もある)。いたずらに関係ないものをぶつければいいわけでもなく、しかし分かりやすすぎるのもよくないだろう。上にあげたのはいずれも第三滑走路13号からで、しかもそれぞれのやり方・効果は三者三様だと感じる。そういう不思議な説得力を持たせるバランス感覚みたいなのがあるのだろう。最後の「過剰に恋は…」の歌なんか、どう思いつくんだろう。適当に言葉を並べてもこうはならないような不思議さがある…。

 

 

 

 後者の青島もうじき氏の短編は「いなくなった相手の煙草を戯れに吸ってみる百合アンソロジー」所収の「Me In The Room」だった。異常論文にも寄稿されていた方で、先日自分がカラオケでツイキャスをしたところコメントをくださったので驚いたりしていた。こちらも難解というか、内容を完全に理解することが難しく、しかし各々の言葉が滲んで煙草、部屋、ふたりという道具立てから詩情を醸すようでした。僕は文系なのですが、哲学書にしても数学書にしても、あまりに難解すぎて目が滑ると逆に詩みたいに読めてきたりするような、そんな瞬間がある気がします。各々の言葉の意味よりも響きのほうが先に入ってきて、詩としての美しさを感じるような…この作品はその境界をゆらゆらしているような印象を覚えました。

 

 


 適当を抜かしてしまった気がするので本題?にする。最近、過去の「この日の過ごし方って案外良かったな…」みたいな光景を思い出してしみじみすることが多い。本当になんでもない散歩の光景だったりするのだけど、やけに懐かしさを伴って反芻される。そういういくつかの日を書き出してみます。

 

 

 


2020年11月4日

 

f:id:isitsutbustu_todoke:20220312013532j:plain

 

f:id:isitsutbustu_todoke:20220312013530j:plain

 

 このときは広島に滞在しており、ひとりで呉に行って散策をした日だった。大和ミュージアム戦艦大和などの仕組みを見ることができる博物館)などは幼少期にかなり行ったので、海沿いのなんでもない住宅街を散歩していた。気候もちょうどよく、そのときの穏やかさな空気がよかったなとしみじみ思い出す。地形は坂道になっていて入り組んだ住宅街があり、海に並ぶ艦船や造船所が見える。素朴な家と機械的な造船所の対比や海の鮮やかさがよかった。

 

 

 

 

 


 2021年2月21日

 

f:id:isitsutbustu_todoke:20220312013817j:plain

 

 遠くのよく知らない学校へ試験監督のバイトをしに行った。なので町は通っただけで散歩もクソもないのだが、これに限らず「試験監督のために赴いた知らない街・学校の風景」というのは外れがなく、しみじみとよかったと思い出せる。なんでだろう、学生時代のノスタルジーですかね。勝手に「ここを通学路にしている子がいるんだろうな」と思っては感傷的になったり、アニメのワンシーンで出てくることを想像したりする。この日はわりと寒く、しかも畑が見られるような田舎であった。バスの中から見える国道はまさに田舎で、ブティックやスナック、社交場になってそうなショッピングモール、まばらなコンビニ、パチスロドン・キホーテがあった。学校があったのはかなり閑散としたところで、山がすぐ近くにあった。乾いた空気と寂れた標識だったりが妙に印象に残っている。

 

 全く知らない適当な学校を設定して、そこの周辺まで向かうという試みをしてみてもいいのかもしれない。ただちょっとストーカーっぽくなるので注意が必要かもしれない。

 

note.com

 

 

 

 


2021年3月29日

 

f:id:isitsutbustu_todoke:20220312013819j:plain

 

f:id:isitsutbustu_todoke:20220312014115j:plain

 

 ひとりで花見をしにいった日だった。漕げる限り自転車を飛ばして遠い住宅街をうろうろしていると、突然きれいな桜が顔を出した。その大きさと美しさに圧倒されていた。自分が0~3歳くらいまで住んでいた町も通ったりしたので、本能的な懐かしさみたいなものがある。朗らかな陽気のなか、桜や子供のはしゃぎ声が民家から聞こえてきたり、幸福に溢れた春の日、みたいな言葉が的確に当てはまっていたと思う。コンビニで買った弁当を誰もいない公園で食べつつ、近くに黒猫が寄ってきたりしていた。本気でこの公園が世界のすべてならいいのに、みたいなことを考えていた。

 

note.com

 

 

 

 

 あとは深夜に6時間ぶっ通しで歩いたときの朝焼けだったり、大阪の淀川付近を人と歩いたのもなんとなく印象深いです。

 

 

 

 

 そのような日々の堆積が最近は脳裏をよぎる。自分の人生を思い返してみて、「この光景や体験が人生ベスト、決定的な衝撃を与えた」みたいなのが思い当たらない。上で述べたような小さな幸福感の堆積が「人生ベストの光景」みたいなのを形成している。なので今後もこういう体験を増やしていければいいねえ、と思うのだけど、これらは意識して積み重ねていくものではなく思い返して「よかったな」となるものだ。だからありのままでいてそういう体験に当たる確率を上げるよういろいろ出向くしかないのだろう。必要だったのでいままで一番写真を貼った日記になったかもしれない。おやすみなさい。