nikki_20220202「客観視した痛さなど」

 

 また早起きして、日記を書いている。きのうは13~18時くらいまでみっちり労働して帰ってすぐ寝た。午前は早起きしたけど2時間くらい寝てしまったのでおじゃんになった。まあ早起きしたときってそういうものなのだけど、よくないので今朝はごはん(朝夕兼用)と一緒に珈琲を飲むことで眠気抑制(または寝てもすぐに目覚めるように)した。がんばろう。

 

 

 

 

 今月、というか今月始めたので開始からのPV数が100を突破、&合計アクセス数が1000近く、&読者も100人近くくらいまでいったらしいです。ありがとうございます!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢💢

 

f:id:isitsutbustu_todoke:20220203080216p:plain

 

f:id:isitsutbustu_todoke:20220203080218p:plain

 

 

 

 

 ほんとうにしょうもない。

 

 以前に知らない人のnoteで、スパムアカウントに対して「自分の日記を消費されているようで嫌だ」みたいな書き方をしていたのを読んでこれだ、としっくりくる言語化に感嘆したことがあるけど本当にそんな感じですね。金づるとか承認欲求のために日記を消費される悲しさがあるけど、いまは純粋読者が増えることをこっそりとした目標にして、こそこそと書き続けてみます。。あまり見てもらうのを考えすぎると自分までもが怪物と化してしまう、木乃伊取りが木乃伊状態になるので

 

 関係ない話題(のつもり)なのだけど、スパムアカウントのノリの寒さみたいなのがある。胡散臭さというものがあって、「夢を叶えます!」とか「みんなを笑顔に!」とか「新しいことにチャレンジしたい三十歳です! ブログ始めました!」みたいな文章を見るとうえ~となるのだけど、これらの文章が意味していることは純粋な熱意のはずなんだよな

 

 中高生とかがそういうノリでいろいろやっているのも痛いといえばそうなのだけど、通過儀礼だなと思う。しかし、大人でやっていると、どこで間違えちゃったんだろうね、、、みたいな気持ちになる。

 

 思うに自分の中というかこういうユーモアを忌避する感性の背景には「努力は隠すべき」みたいなものがある気がしている。自分で「こういうことしてます!」とアピールしたり、ハッシュタグを使ったりすることへの謎の抵抗みたいなのがある。何も言わず作品だけさらっと提出するのがかっこいいし、すごいアピールするのはダサい。みたいな価値観は、どこから来てしまったのだろう。正しいも間違いもないけど、そうやって純粋にアピールする人のほうが変にひねくれてしまった自分たちより遥かに純粋なはずなので。

 

 明快な回答として、ギャップがかっこいいからなのだろう。何も言わなかったり、普段からどうでもいいことしか言わない人が突然すごいことをするのって、まあ冴えない名探偵とか、気弱な青年がスーパーヒーローになるような、そういう幼いころから植え付けられてきた「かっこよさ」を本能的に呼び覚ますのかもしれない。よく言われる一生懸命にやることがダサいみたな価値観もそこから来てる可能性がある。いや、一生懸命さとその努力を隠すことはまた別問題かもしれない

 

 一生懸命に努力することがダサいみたいな風潮ってもうあまりなくて(鬼滅のような熱い少年漫画が流行ったこともある?)、一生懸命やるけどそれを公言するのがダサいみたいな風潮(絵師が落書きとか言って作品だけさらっと出すのとか、あるいは前述したスパムアカウント等の『顔晴る』みたいなユーモアを忌避する風潮)の方が強まってきている説がある。

 

 しかし、現実はフィクションのようにはいかないので、そうして努力を隠し、自分から発しなければ注目はされないし消えて行ってしまう。

 

 だから、そういう風潮を無視してひたすらアピールするほうに振り切ってしまうと、スパムみたいなモンスターが誕生してしまうのだろう。でもそれって純粋な熱意ではあるんだよな。なんか誰も悪くないのにこういうことが起こってることが分かってきて、虚しくなってしまった。

 

 そういう人でもコンビニとかで弁当やおにぎりを買うんだろうね、と思うと不思議な気持ちになる。こういう客観視した痛さの話をすると、常に自分もそうみられている可能性に思い至ってなんともいえなくなるからあまりしたくないな。おやすみなさい。