nikki_20220210「趣味」

ではいま両親は幸せなのだろうか、みたいなことを不意に考えた。人生において究極の目標にしていることとか、満足しているのかとか、幼いころに目指していたけど諦めてしまった夢とかあったりするのだろうか…。おそらく誰でも幼いころから考えていて渋々諦めたような道というのがあって、妥協して生きていくしかないのだけど、そういう話を家族から聞いたことがない。

 

 2/7の日記でこう書いたのだけど、自分はどうなんだろうと考えてみた。僕は幼いころから小説家になりたいと思っていた。いまもそうだけど、主に推理小説の。特に小説家に命を救われたとかそういうものはなく、単に好きだったからだ。いまはそうでもなくなった。それはたぶんいくつか理由があって、まずは厳しさを知ったから。Twitterなどで作家さんの日々の呟きなどを見ていると、あの世界で食っていくのには大変なのだと分かる。兼業でやったとしても、執筆時間の確保は本当に好きじゃないとできないよなあ…と見ていて思う。もうひとつは、別に小説を書くことだけが創作ではなくなったからである。それ以外の作曲などもやってみて、純粋にそれで楽しいなと思った。小説を書いて生きていかなくても、それを発表したりすることで今は満足している。

 

 これはつまり辛酸をなめてでも小説家になる覚悟を捨てたということでもある。自分は「幼いころに掲げた夢は達成しないといけない」みたいな馬鹿正直さがあるので、やはりどうしても選ばなかったほうの道を考える。しかし、道楽として趣味をすることは何ら問題がないはずである。創作に限らず、別に哲学者で食わなくても哲学の本を読んで論じていいし、映画評論家じゃなくても映画を見てレビューを日記に書いてよい。

 

 思うに、行為は行為でしかない。それを通じて生起した事柄に人間は楽しみを見出している。例えば映画を見るのが好きな人が「一生映画だけ見ていたい」と言ったとして、本当に10年間必要な食事睡眠運動以外すべて1分の無駄もなく映画を見続けたらたぶん心身を病んでしまうだろう。ピノキオピーに「すきなことだけでいいです」という曲があるが、それは周囲の問題だけでなく、自己の問題としても無理なことである。これは「映画を見る」という行為のなかに楽しみがあるというより、映画を見て感想を考えたりそれを人と語らうような副産物(この言い方はよくないかもしれない)に楽しみを見出しているといえるのかもしれない。

 

youtu.be


 何か趣味があって、その趣味の中にある事柄を極めて結果を出し、夢をかなえることが全てではない。それを通じて生まれる副産物を楽しみとして生きることは何もおかしくない。サッカーのテクニックを極めてどこかで優勝することがサッカーをやる目的のすべてではない。サッカーを通じて友人と交流することが楽しみで、そこで完結することは何も悪くないはずだ。

 

 

 

 日記が飛んでいたのはレポートと対峙していたからです。2/9に書いたように労働から5時半に帰宅→買ったブラックコーヒーやレッドブルを飲む→そのまま朝10時までカフェインに弱いので気持ち悪くなりながら粘る(ここで一度食事)→寝落ちして15時に起きて続き(ここで一度食事)→そのまま24時までやって寝落ち→朝7時に起きてやるも限界過ぎて筆が進まず10分おきに寝て起きてを繰り返す→10時に寝落ちして15時に起床→落ち着いたのでごはんを食べて日記を書いている←いまここ

 

 この流れのどのタイミングだったか忘れたけど昨晩の夜くらいに30分だけ散歩をした。純粋に家に籠ってキーボードと対峙していても健康に悪いと判断したからである。そうでなくても、もう画面の見すぎで頭が痛くなったり口内炎もできてはいるのですが。そのときに考えたことが、最初に書いたことだった。

 

 散歩のときにひとりで飛び石をわたったりして遊んでいました。おやすみなさい。

 

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