nikki_20220209「メメント・鳩羽つぐ」

 

 

 

 

 windows11にアップデートしてしまった。いままでタスバーにあるアイコンが右に寄っていたのが中央になったりするらしく、居心地が悪いんだろうなと思っていたけどやってしまった。macにUIが近づいたという話を聴いたが、そんな感じだ。macは家電量販店の店頭で少し触ったくらいの経験しかありませんが。

 

 

 

 

 きのうの日記に12時間ずれて生活しようと書いた。夕方の4時に起きてそんな感じでいたのだけど、日記でやったwordle系ゲームRTAで日記を書いたりするのも含めて5時間ほど浪費→明け方の5時くらいにそのまま寝てしまった。起きたら正午くらいで、そのまま労働した。久方ぶりに定時で上がれた。外が明るいまま帰ることができてうれしかった。

 

 

 

 

 このツイートからbackroomという概念を知った。直訳すると「裏の部屋」であり、初出とかについては下記サイトが詳しかった。liminal spaceと似たものがあるというか、どこかで分化した概念のような気がしている。確かにこういう何もない図書館みたいなところが延々と続いているのは、なんともいえない不気味さがあるな。しかし今までに無かった怖さだなと思い、このbackroom関連の動画をおすすめされるままにどんどん見ている。

 

 

youkai.hatenablog.jp

 

 たいていは無機質な部屋がずっと続いている場所に気が付いたらいる、もしくは壊れたビデオカメラから唐突に映像が始まる。主観映像でうろうろしているとどこかから異音がして画面がクラッシュして終了、という1~2分くらいの映像ばかりだ。とはいえバリエーションも多く、基本的には黄色いカーペットのある上記ツイートの部屋なのだけど、地下駐車場みたいな打ちっぱなしのコンクリートで包まれた場所もあれば、子供部屋みたいなピンクの壁のものもあったり。

 

 特に興奮したのはこれで、なぜかというと前に読んだ矢部嵩「〔少女庭国〕」そのままだったからである。実際はもう少しひとつの部屋が広かったり、ドアの仕組みは違うだろうし数字もないのだけど少女庭国だ!とはしゃいでしまった。これらの映像を見るときに没入するというか、CGでうまいことやってるな…という視点で感心しながら見ている。あと怖くても繰り返し見てしまうのは、空間に感じるそこはかとないノスタルジーや安心なのかもしれない。

 

youtu.be

 

 

 


 この空間への憧憬について考えていて(というかレポートで書きたいと思っている)、鳩羽つぐのことを思い出した。熱心に見ていたり考察を追っていた人間ではなく、ときどき見たりしていた。断片的な映像から人物像を垣間見せる演出とか、毎週何かを見たりするのが苦手な自分にとっての追いやすさ、存在しない空間への憧憬とか自分の好きな要素ばかりだったなと思えてきたな。復活はしなくていいです。

 

 最語の動画には「みんな忘れんな。忘れたらこの鳩羽鳩羽つぐは本当に終わっちゃう」というコメントがあった。この文章自体は痛いなと思うのだけど、世界に投げ出された「鳩羽つぐ」の断片が見た人それぞれの記憶の中で存在し続けている、という状況はなんかいいなと思ってしまう。考察もせず、断片からただその子が「いる」ということを感じる趣深さがある。

 

 これだけ魅力的なものをばらまいて何もせず、あとは勝手にどうぞと言う感じでずっと更新が途絶えている、在り方に対する憧れみたいなものもあるだろう。作品について語りすぎてはいけない、何も言わず作品だけさらっと出すべきとか、ミステリアスでありたいとかそういう美学・願望が自分の中にやはりあるのだと思う。この「買い物」の最初にある古びた金魚屋?の感じとかとても好きだ。

 

youtu.be

 

 

 

 

 

 話は飛んで、昨晩くらいにrurudoさんという絵師の方がスペースをしていたので聴いた。彼女はイラストレーターが本業であるのだけど、たまにyoutubeなどでゲームの配信をしている。去年の夏くらいから始めていて、その初回を僕は聴いたりしたのだけど声がかわいい。どちらかといえばロリっぽさというかアニメ声のような雰囲気であり、昨晩のスペースについても「可愛い」という感想が相次いでいて勝手に後方古参面をしかけていた。同じくイラストレーターであり成人漫画家の玉之けだま先生と一緒に配信をすることもあり、彼女も声がかわいい。絵も描けて声も可愛いのはずるいなあ、といつも思ってしまう。そんな雑談を聴きつつ、こうして萌え声配信者のオタクおじさんはできていってしまうのか、自分もなってしまう、、という気持ちになっていた。

 

 その内容について考えていて、先生は病み気味なのでスペースでお酒を飲んで雑談をするというようなものだった。その中で「愛されたい、自分だけ愛してほしい、そうじゃなければ一緒に死んでくれ」みたいな冗談を言っていて、メンヘラだな~と思っていた。どちらかというとファッションっぽく見えるメンヘラ(以下、ファッションメンヘラと記述するが本来の定義は少し違うだろうし、メンヘラの定義も曖昧である)

 

 メンヘラ、という言葉がある。このスペースとちょうど同じくらいのタイミングで、Twitterで病んでいる人を見かけた。僕はいま二階堂奥歯「八本脚の蝶」を読んでいる。これは若くして自殺した女性編集者である二階堂奥歯が、ブログに綴った日記を書籍化したものである。わりと長くていまやっと半分くらい読んだのだけど、終盤につれて高まる死への願望や鬼気迫る文章が増えてくる。このような文章は、病んでいる人のツイートと似ている。だから自殺するのと、その手前で踏みとどまっているのは紙一重なのだ、と思った。

 

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 相互フォローの人が匿名ブログを引用して言っていたが、いつ死にたくなるかは分からないのだ。引用されたブログによると、振り返ると「なんであのとき…」と思うような異常な死への執着があるらしい。

 

 

 いま見たら2014年だったのだけど、こんなものもあったので読んだ。いまはメンヘラ界隈も変わっているのだろう…。

anond.hatelabo.jp


 そこで話は戻るのだけど、そのようなファッションメンヘラみたいな態度は実際に死を選んだような方々に対して失礼ではと思ってしまったのですね。しかし、そうでもないのかもしれない。ふわふわと「愛されたい~」「一緒に死んでくれ~」みたいなことを言っていても、それは切実な助けをオブラートに包んでいるだけの可能性だってあるかもしれない。そもそも、有無を言わずに包み込んで無条件に愛してくれる完全無欠で不満のない、そんな唯一の存在を欲する気持ち、それはだれしもあるのでは? みんなメンヘラの素質はあるけど隠しているだけでなのでは…? それがかなり顕在化しているから「メンヘラ」などと言われているだけで、誰しもそうなのかもしれない。周りに迷惑をかけたりはよくないし、まあちゃんと病み垢界隈などを観察するとたぶん僕もうわ~と思うだろう、しかしファッションメンヘラのような仕草を必要以上に嫌悪する必要はないし、なんかそれでいいし、萌え声はかわいいなと思ったのだった。おやすみなさい。