nikki_20220220「佐藤岳詩「メタ倫理学入門」を読んだ」

 

 夕飯も食べず、前日の9時くらいに寝た。「翠ジンソーダ」というお酒を飲んだのですぐに眠れたのだった。ジンというものがよく分からないが、翠ジンソーダは和風の味付けをしたお酒をソーダで割ったものらしい。そこまで好きという感じではなかった。起きたのが朝5時くらいで、健康なリズムになったのかなという感じでした。終わらせるぞ終わらせるぞと睨んだ倫理学関連の課題がいつまで経っても終わらず、それとその他課題で15時くらいまで時間を消費してしまった。あとは家族との連絡をするなど

 

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 一連の課題関連でやっと読み終わったのが佐藤岳詩「メタ倫理学入門」だった。正直最後の方は流し読み的なところがありましたが。一通り読んでみて、課題のために内容を理解しようといくつか読み返したりしていた。これは毎回哲学書を読むたびに思っていることですが、自分がぼんやり考えていたことがちゃんと先達によって理論だてられていたことに感動する。例えば最後の「そもそもなぜ道徳的に善くふるまう必要があるのか」という項目では、そもそも道徳を守る必要はない、道徳を守ることで自分が得をするから守るべき、道徳そのものに価値がある、道徳を守るべき理由は直感で分かるはず、みたいな立場が登場する。これなんかはわりと誰しも考えたことがあるのではないだろうかというか、確かにそれ自分も考えたことあったなという気持ちになれた。

 

 この「なぜ道徳的に善くふるまう必要があるのか」についての最後の方で出てきた文章とか、中身に納得できるかは別としてなんかかっこいいなと語感だけで思ったりしました。これで説得されてもなんともいえない感じではあるし、僕もよく理解はできていないが文章として好きですね

 

もちろん、そうすることは実際に可能だし、そのように堕落した生活を送っている人はたくさんいる。しかし、それでも「まともな人物は不十分な形でなら、たぶんいつでも本物の善と偽りの善を区別することができるのである」とマードックは述べる。

 

したがって、見方の倫理は「私たちには道徳的に善く振る舞うべき理由があるか」という問いについて、次のように答える。あなたがそもそも理由というものに何の意味も見いださないなら、見たいものだけが見える虚構の世界の中で満足していたいのなら、道徳的に善く振る舞うべき理由などない。しかし、あなたがそもそも理由というものを追い求めるなら、真理と正しさを世界のうちに追い求めるのなら、そしてより善いものを追い求めるのなら、あなたはすでに道徳的に善く振る舞おうとしている。だから、それ以上の道徳的に善く振る舞うべき理由なんてものはいらない。あなたが真理と善に心から向き合おうとするときに初めて、すべての理由は意味をもち、同時に意味を失う、そしてそれでいいのだ、と見方の倫理は考える。

 

 なので私はこの記述が引っかかりました、とかここに異論を唱えたいですみたいなものは特にないし、理解することで精いっぱいでした…。大部分を占める議論は「道徳は存在するか否か」で、これがなかなか難解というか抽象的な概念について考える究極みたいな話なのでいまいち掴み切れていない。しかし、そういうこと(善と悪の定義や、抽象的な概念についてあれこれ考えること)こそ自分が「哲学」という学問に対して抱いてきたイメージだったのでそういう嬉しさがあったな。そのため応用倫理学とかについて触れると、これも哲学なのか~という気持ちになることがしばしばです。おやすみなさい。