午前に起きて、作ってるものに取り組む。5時ごろから人とラーメンを食べる約束があったため赴く。たくさん具があり、食べきることが地獄とされるあの知られたラーメンである。下の図を見ればわかるはず。
流石人気店とだけあり、待つこと1hourで食べることができた。ノーマルで、ベジタブルを「マシ」にして頼んだ。ビッグを頼みかけた自分があったが、この選択は正しかったのであると後に知る。
食べて見ると苦戦した。半分で断念を考えかけたが、水を飲むと緩和された。初めて訪れた店で残すことは、マシで頼んだこともあり駄目である。まるで映えを気にして結局残す客へ変身するのも拒みたくて、からがら食べきったのだった。
店を出て氷菓子を買って食べた。持参したスースーする菓子を食べたりしたが、舌にぴりぴりとした感触があった。にんにくで塗りつぶされた舌には、ひりひりした感じで響くのを感じた。僕の知るラーメンとは別のもので、食べ物と向きあってひたすら身体に叩き込むスポーツであると感じた。「食べる」を超えた「店を出たければ喰らえ」と圧が満ちた場所…。しかし腹をすかせてリベンジできたら、と考えた。
帰宅する道でも寝る前でも、腹の重さや油の香りが腹から感じられた。僕が食べたコンビニのあれはまだ序の口であったと分かる。人とものを食べることは、50%が食事、50%が談話だったりする。このラーメンは100%は食事としてあり、その場所としてラーメンがある。アトラクションとしての食事は斬新で、ゆえに流行ったのかも。また訪れてみることをかんがえる。ではまた*1
ごぜんにおきて、つくってるものにとりくむ。ごじごろからひととらーめんをたべるやくそくがあったためおもむく。たくさんぐがあり、たべきることがじごくとされる、あのしられたらーめんである。したのずをみればわかるはず。
さすがにんきてんとだけあり、まつことわんあわーほどでたべることができた。のーまるで、べじたぶるを「まし」にしてたのんだ。びっぐをたのみかけたじぶんがあったが、このせんたくはただしかったとのちにしる。
たべてみるとくせんした。はんぶんでだんねんをかんがえかけたが、みずをのむとかんわされた。はじめておとずれたみせでのこすことは、ましでたのんだこともありだめである。まるでばえをきにしてけっきょくのこすきゃくへへんしんするのもこばみたくて、からがらたべきったのだった。
みせをでてこおりがしをかってたべた。じさんしたすーすーするかしをたべたりしたが、したにぴりぴりとしたかんしょくがあった。にんにくでぬりつぶされたしたには、ひりひりしたかんじでひびくのかとかんじた。ぼくのしるらーめんとはべつのもので、たべものとむきあってひたすらからだにたたきこむすぽーつであるとかんじた。「たべる」をこえた「みせをでたければくらえ」とあつがみちたばしょ…。しかしはらをすかせてりべんじできたら、とかんがえた。
きたくするみちでもねるまえでも、はらのおもさやあぶらのかおりがはらからかんじられた。ぼくがたべたこんびにのあれはまだじょのくちであったとわかる。ひととものをたべることはごじゅっぱーせんとがしょくじ、ごじゅっぱーせんとがだんわだったりする。このらーめんはひゃくぱーせんとしょくじであり、そのばしょとしてらーめんやがある、あとらくしょんとしてのしょくじはざんしんで、ゆえにはやったのかも。またおとずれてみることをかんがえる。ではまた