nikki_20220322「鯉など」

 

 起きたのが正午ごろ、事務的手続きのために数駅先の施設へ向かった。窓口の女性が冷淡に感じたのだけど、長い間やって色んな人に対応してきた末の機敏だろうと思った。あと待ち時間などの表示が病院もしくはマクドナルドとかと同じシステムで、こうなんだ~と感心していた。ともあれ施設まで行けたのは偉い。歩いていると交差点の一端に鯉のいる池が突然現れたので面白かった。おそらく自治体で飼っているのだろうか?前に立つと口をぱくぱくして集まってきて、色の鮮やかさに驚いていた。食材の買い出し、家電量販店で1時間ほどいろんな商品を眺めるなどをして帰った。家電量販店では普通にニンテンドースイッチが買えるようになっていた。前に妹が欲しがっていて、同じところに来たときは在庫枯渇状態だったのだけど落ち着いたのだろう。

 

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かわいい。

 

 

 

 

 高校のときに生物基礎を受講しており、サカナの体内と体外の濃度調節・浸透圧、云々の話を暗記したのを思い出していた。それらは水の中でしか生きられず、水という物体の中でかろうじてサカナとしての形を保っている。水から出てしまうともはやあのフォルムはなくなり、気の抜けた風船のようになってしまう。人間も同じなのだろう、と思っていた。大気圧とか重力などの条件が奇跡的に整っているから人の形を保っているだけなのである。水の中では生きていけないし、太陽に近づくこともできない。ではそのような環境でも生きられるようになった人間はヒトといえるのか、などと考えると果てしない議論になるのだろう。

 

 

 

 

 関連してではないのだけど、数日前には死んでいる人と生きている人の違いを考えていた。具体的には、亡くなった人間も生きている人間も同じように扱われるべきではないかと考えていた。亡くなっている人は生きている人よりも慎重に扱われる場合が多いと感じるのだけど、それは意思疎通が不可能である点、また亡くなったという事実が付加することで周囲の人間の悲しみなどを考えると軽率な冗談が言えないという点があるのだろう。しかし周囲の人間の悲しみなどを無視してその個人で考えた時、そこにある権利などは生きている人間と変わりないのではないかと思った。つまり死んでいるということを、別の平行世界で生きていて二度と会えなくなっただけであると考えれば、生きている人間とそこまで変わりないのではと考えていた。でもやはり意思疎通ができないことが大きく関わってきそうな気もしてきた。分からないです。あともちろん亡くしたことに対する周囲の悲しみなどはあると思うし、自分もいずれ経験することを考えると軽率なことは言えないです。おやすみなさい。