日記_2022/1/15「つくみず「少女終末旅行」を読みました。」

 

 明け方に寝たが、寝坊できない約束があったので3時間睡眠で目覚めて午前中のうちにATMに行くなどした。午後からいろいろしていると夜になり、新年会的なものがあるので行ってきた。

 

 行く前は嫌だったが行ってみるとまあまあ…という感じだった。そこまで人との交流を怖がる必要ってないのか?と思った。(誰かと会うたびこう思っているから交流を増やすべきだとも思うし、でもひとりが好きなのは変わらないのだろう)飲み会って何もしなくても会話が流れてくるので楽なのかもしれない。

 

 

 

 つくみず「少女終末旅行」全6巻を読み終わった。ここ数日の日記、個人的に内容も詰まっており本の感想も続いているのでいいのだけど、たぶん数日後に出がらしみたいな内容しか書けなくなると思う。

 

 いまは「行くぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」みたいなノリで去年より多く本を読もうという気に満ちている。

 

 

 

 

 以下、少女終末旅行の感想を書く。ネタバレは当然します。

 

 生きる為に生きる状況で日常系はどうなるのか、みたいな話だった。「生きる為に生きる」というのは2巻の作者あとがきにあった言葉である。

 

私もよく描いている二人のことがうらやましくなって
 嗚呼…ただ生きる為に生きられたら…と思いながら
 庭の犬をなでます。

 

 「生きるために生きる」という状況において、日常系はどうなるのか。その営みに呼応するようにチトとユーリが探索する都市で「生きていた」という営みが再確認され、次第に自分たちも同じなのだということに気づいていく。そこには徹底した営みへの客観視と諦観、ニヒリズムのようなものが漂っている。そしてほのかな絶望がときどき顔をのぞかせる。

 

 この2巻における飛行機のエピソードも、とてもよかった。イシイという研究者が必死に組み立てた飛行機が満を持して飛行するも、すぐに折れて墜落する。そこで出た台詞が「一人でがんばってきたが……でもまあ失敗してみれば気楽なもんだな…」である。実際は「一人でがんばってきたが……でもまあ失敗してみれば」で切れて「気楽なもんだな…」という台詞とともに、次のページで大きく荒廃した都市が見開きで描かれる。かなり最高だし、この瞬間にああ、この作者は信頼できるな…と思ってしまった。

 

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 失敗してみれば気楽である。失敗はまだ努力がこの先続くことの暗示であり、いままで縛られていた成功への執念からの解放である。それに安堵を覚えたゆえの言葉だと思う。さらに、この言葉にはまだまだ続く営みの永遠性に安堵すら覚えていることも含意している気がする。これはそのまま果てしなさに対する諦観みたいな作風が現れた台詞だと感じた。

 

 そういう諦観したまなざしみたいなものがずっとある。

 

 これは結末においても同様で、必死に暗闇の中を昇り続けて目指した塔の頂上でチトとユーリの目の前にあったのは、ただ大きな石があるだけだった。楽園でもなんでもない、まさに果てしない虚無の空間である。この絶望感というか何もなさは、そのまま都市の描写にも現れていたように思う。

 

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 そのような世界においてチトとユーリの日常が続く。例えば部活ものにおいて、部活が無くなっても主人公たちの死に直結はしない。バトルやロボットアニメ、謎を解かなければ死ぬような状況でも、主人公たちの行う戦闘だったり推理はあくまで他のものを媒介として死と繋がっているにすぎない。しかし、この作品においてはチトとユーリが行うことはそのまま「死」と直結している。生きる為に生きることは、死がいちばん近くにいるということだ。

 

 繰り返しになるが、生きる営み自体が日常の全てであるなかで生の痕跡を確認し、自分たちの生に気づくという循環する構造を日常系のなかで成立させている。そういうメタ日常系みたいな作品だと感じた。そこを包むのは徹底した虚無感、脱力感、諦観のまなざしだった。

 

 しかし冷たくはなくて、愛情を感じる。それが端的に出ているのは最後の「生きるのは最高だったね…」という台詞である。部活系のアニメで最後はやはりこの部活と仲間と過ごす時間が好きだ…となるのと同じように、最後は「生きる」という営みに対して「最高だった…」と言い放つ。

 

 

 

 この作品は新潮社であり、日常系で有名なきらら作品ではない。しかし現在つくみず先生は現在日常系作品を書いているらしいし、6巻において「私何もできないから…せめて歌を…」とあるのはきんいろモザイクでよく音madになっている有名なシーンを意識しているのではないか、と考えた。絵も描いている。(きんいろモザイクは未視聴)

 

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 つまり「生きるのは最高だったね…」というのは日常系に対するつくみず氏なりの愛のようなものだと感じた。しかも「最高だった」という過去形に諦観を感じる。行きつくところまで行きついてしまった日常系の極北で最後に出るのがこの台詞なの、好きだ…。

 

 途中で世界が終わるみたいな話もあったのだけど、世界の終わりとふたりの終わり、先にふたりの終わりが訪れたのもよかった。(亡くなったとは明記されていないが)ちゃんと「ふたり」にフォーカスしている。

 

 以下、個人的な経験と結びつけてあれこれ細かいところを書いて終わります。

 

 気体分子が自由に動き回るように私たちは各々が自由にそれぞれの目的を抱いて生きたいだけなのに、どうしてこうも複雑な書類手続きとか対立とか誤解とか説明とかがたくさんあるんだろうねみたいな疑問が、私には最近ずっとあった。しかし「生きる為に生きる」というふたりの生き方を見て、複雑な書類手続きは死から遠のいて安心を得るための犠牲を払っている、死という最大の恐怖から遠ざかる代償を小さな対立誤解説明などで細かく分散して負担しているんだな…と考えた。

 

 あとは最後まで読んでpeople in the boxの翻訳機を思い出した。なんとなく最後の歌詞がそれっぽいというか、「悲しいね 悲しいね 悲しいね/ときどき 楽しいね」が少女終末旅行…という感じがするな。「JFK空港」のゆるやかな絶望感も思い出した。

ぼくが飛ばす飛行機のなか
横たわるきみの席はファーストクラス
燃料は楽しかったこと
悲しかったことのせめぎ合い
悲しみには終わりがないね
終わりがないのは悲しいからね
ぼくはきみの翻訳機になって
世界を飛びまわってみたい
悲しいね 悲しいね 悲しいね
ときどき 楽しいね

 

 あとこことかいま読みかけで止まっている暇と退屈の倫理学だ!となった。

 

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 結末は悲劇的ではあるけど、好きな作品だと思った。つくみず先生の考え方とか画風が好きなのもありそうだし、やはりこういう作品が好きだ。2月にコミティアが東京であって、行けたら行きたいと思っているのだけどつくみず先生は出ないようだった。画集がほしい。

 

 おやすみなさい。