nikki_20221204「冬に長距離を歩くべきではない」

 

20221202~1204までの3日、金土日をかけてずっと長距離を歩くということをしていた。具体的には神戸大学京都大学までおおよそ70kmほどを歩くというもので、前々からやってみようと画策していたことのひとつだった。それについて写真だの地図だのを用いて長々と書くこともできるのだが、あまりやる気も時間もないので簡単に考えたことをいくつか放流する。

 


やる気が起きない理由として、はてなブログだと写真をあげる手間がある。ほかのプラットフォームだとしてもともかく「スマホで撮影した写真をパソコン上に映してトリミングしたり拡張子をそろえる」というのが面倒だ。でもいつか「あとにしっかり文章として残す」というしっかりした意思をもってどこかに行ったりしてみたい。それはそれで楽しくなかったり楽しかったりするんだろうな。

 


歩いていると「住吉」という地名を複数回みかけた。今までも見たことあるので色んな場所ににあるね、と思った。しかしよく考えると「住みよい」から来ていることが推測できるわけで、「住みよい町になってほしい」という思いは別に地形とかに関係ないし、付けたくなる名前で当たり前なんだろう。

 


長距離を自力で移動する旅は冬にやるべきではない。単に寒いからというのもあるし、日没が早いので行動できる時間が限られる。日が暮れたからといって動けなくなるなんて昔の人じゃないんだから……と思うかもしれないが、暗くなった知らない街を歩くのはわりと怖い。国道沿いなら人通りがあるけど、そうでない場合もある。線路を横断するために踏切まで迂回する住宅街の線路沿い、大きな川を横断するために土手まで上がるための住宅街などは意外と灯台下暗しという感じで、電灯がそんなになかった。昼間だと普通なのだけど、夜になるとそういう怖さが浮き彫りになる。

 


仮に誰かと一緒に歩いたら楽しいのかもしれない。しかし、ここまで長い距離を歩くのは無言の時間も気まずくない相手とやるべきだと分かった。ずっと歩いていると無言になる時間は必ず来るし、なんならそっちのほうが多くなる可能性すらある。気兼ねなく無言になれる関係性ではないといけない。もちろん逆に、特に仲のよくない人と無言を耐えることで育まれる絆もある。こうして歩くときはいつも、つくみず『少女終末旅行』を思い出す。チトとユーリはそんな無言も耐え抜いてきたのだろう。もともとそういう仲だったのか、旅するうちに深まったのか、どちらでもあると思う。

 


秒速5センチメートルの桜花抄も思い出していた。ひとりで篠原明里の元まで向かおうとした主人公の気持ちも分かるし、ずっと「あとどれくらいの速度で歩いたら今日はどこまで行けるか」と考えて歩いていた。行きはよいよい帰りは怖い、などというけれど歩いていると思うのは逆である。先になにがあるか分からない状態で歩き続ける道は、距離も長く感じる。一方で帰りは道が分かっているから、先行きが分かりやすい。歩く旅の醍醐味は帰りの電車かもしれない。帰りに電車で車窓から流れる景色を見ているとあのとき歩いた道、見かけたイオンや工場が高速で過ぎ去っていく。映画のエンドロール、あるいはそれまで出会った人々が出てくるロードムービーのラストシーンみたいだった。