nikki_20230921「まずい飯のこと など」

 

最近は大阪文学フリマに行った。淀屋橋から中之島公園あたりの朝の空気が気持ちいいので、毎回会場までは必ず歩いて行くということをしていて、今回もそうした。開始からしばらくして入ると思いのほか人が多くてびっくりした。ちょっと詰まって立ち止まる、みたいなのは経験がなかったのでなんかすごかった。自分のいるときに入場者が過去最多的なアナウンスがなされていたので、まあそういうことらしい。

 

あとはインターネットで知り合った人に会った。インターネットや創作の話、この日記についての感想もいただけてうれしかったです。こうしてだらだら長文を書いたりはしているが、それでも書かないようにしているライン、言及したらダサい気がする自分のスタンスみたいなものはあって、誰かと会うとその話ばかりしている気がする。あまり積極的でないにもかかわらず、こういう人とお会いする機会が年に数回あり、申し訳ないような不思議な気持ちがある。考えてみると距離感がバグっているところがあるというか、私はけっこう躊躇いなく好意的な感情をインターネットの文面で出すところがあって、それがきっかけになることが多い気がする。となると自分自身の魅力というより、そういう立ち振る舞いの結果なんかなあとも思ってしまい複雑なのだけど、結局は現状維持していきたいなーという結論に、いろいろ話して思い至っていた。

 

自炊をしていると、たまにまずい飯を錬成することがある。基本的にレシピを拾って再現しているため失敗することはそんなにないのだけど、まれに勘で作ったり、食材が悪かったりして失敗することがある。先日できたのは前者の方で、醤油みりんあたりが不足していたので、めんつゆだけで適当にたまねぎと鶏肉を煮てご飯に乗せたらあまりおいしくなかった。味が薄い、甘すぎた。でもこれを思い出すのもちょっと時間がかかっているように、だいたい数日後にはその味を忘れてしまう。別にまずい飯に関わらず毎日の食事全般がそうかもしれない。覚えては忘れるまずい飯こそ生活の手触りだということを考えていた。もちろん度を越してまずい場合は覚えているのだけど、こういう食えなくもないがおいしくはないなーというラインのものは意外とすぐに忘れる。たぶんこのまずさは忘れるだろうと思いながら、でもこの味をかみしめることで生活の一部にまずい飯があることを実感する。そして明日にはまた違うものを食べて、だんだん忘れていく、でもなんかまずいものを食べたということだけ覚えている。という記憶の連続性に生活らしさがある気がして、うまく説明できないのだけどなんとなく好きだと思った。これは美味すぎる飯でもいえるのだけど、まずい飯のほうが生活感がある。

 

文章を書くとき、自分の中にあるものしか出ないのだなという実感がある。私は他人の何らかをみたときに「どうやったらそれが思いつくんだ」という観点から感動する場合が多いのだけど、自分の中から出てきたものである以上、自分の創作でそれを味わうには一度記憶喪失とかをしないと無理なんだろう、と思うとちょっと寂しい。ランダムに曲をつくってみる人がいたり、読み手に読む順番を任せる小説や詩があるのは、そういうところもあるんだろう。私がやっているいろは歌とかの言葉遊びもそうで、使える音の縛りを課すことで自分の想像の外側にある言葉の組み合わせがでてくる。さらによく考えると作詞とか短詩とか小説とか絵画とか、なんにしろ規定されたものの上である程度縛られることで、思いもよらないものが偶発的にうまれるところはありそうである。でもその縛りに対して出てくるものも、あくまで自分の中の気付かない何かであり、やっぱり自分でしかない。たとえばいろは歌を作っていて面白い単語の組み合わせが出来た!と思っても、なんとなく「自分の語彙ではあるな」という気持ちも一方では存在している。

 

isitsutbustu-todoke.hatenablog.com


これの追加

  • みから始まるものを持ってくる、という企画でミラノ風ドリアを持って来た芸人がいて「ミラノ風」はずるいだろと非難されていたこと

 

  • 世界仰天ニュースかベストハウス123で、手から薬を生み出せる人物が取り上げられていた(CMを見たこと)

 

  • アンビリバボーで身体が自分の意思に反して動く病を特集していた(次回予告を見たこと)