nikki_20230222「國分巧一郎『暇と退屈の倫理学』」

 

 

かれこれ1年以上前になってしまうが、かつてある人と会ったときにこの本の話になったのを思い出す。当時わたしは読み始めで、会った人もちょうど読んでいるとのことだった。待ち合わせ場所にはその人が先に来ていて、この本を読みながら待っていたのも印象に残っている。そのときは2章まで読んでいたのだけど、いかんせん読書ペースが遅すぎてそのまま1年以上放置していた。このたび最初からもういちど始めて読了したので感想を書く。その人曰く遺失物届さんらしい本ですよ、と言われたのだけどそれがそうだったのか、読み終わった今となっても分からない。

 

ただ自分が生活のなかで感じていたことと共鳴する部分がいくつかあってよかった。哲学あたりの本を読むときは自分との接点を見つけることに醍醐味を見出すことが多い。この本は特にそれが多かった気がして、そういう点ではたしかにわたしらしいのかもしれない。

 

「本書は哲学の本であるが、哲学を勉強したことがない人でも、自分の疑問と向き合おう、自分で考えようという気持ちさえもっていれば、最後まできちんと読み通せる本として書かれている。」とあるように、比較的平易な言葉で書かれている。タイトルからして難解そうではあるのだけど、内容は様々な学問を参照して暇と退屈について論じていくというものである。マルクスの話や、果てはダニの生態の話まで出てくるので面白い。こういう本をもっと早く読んでいれば学問の醍醐味に気づいて進路とかも変わっていたかもなと想いを馳せてしまった。そういう知的好奇心を満たしてくれる本でもあると思う。

 

紹介みたいになってしまったので内容の話をする。例えば私の地元である広島には地震が滅多に来ない。たまに来たりして速報が鳴ると不謹慎な興奮を覚えることがあった。これは表立って共有できないけどみんな同じなのか、それとも悪いことなのか、みたいなわだかまりを幼少期に抱えていた。それに対する回答もこの本では示されていて、おそらくラッセルの退屈論がそれに該当する。

 

>退屈する心がもとめているのは、今日を昨日から区別してくれる事件である。ならば、事件はただ今日を昨日から区別してくれるものであればいい。すると、その事件の内容はどうでもよいことになる。不幸な事件でもよい。悲惨な事件でもよい。「他人の不幸は蜜の味」と言われる。だれかが他人の不幸を快く感じたとしても、それはその人の性質が根底からねじ曲がっていることを意味しない(もちろんすこしはねじ曲がっているかもしれないが)。この蜜の味には、ある構造的な要因があるのだ。

 

ハイデガーの退屈の第二形式の話も面白く、人生って理不尽で面白みのないものだという価値観が自分のベースにもあるので「生きることは暇と退屈に向き合い続けることだ」とするのは納得のいくものがあった。

 

@arudanshi人間以外の動物の思考って最終目的が生存になっているロボットのプログラミングみたいなものだと思っているけどどうなんだろう

 

ユクスキュルの環世界論の話はこれに対する回答にもなっていたと思う。知覚する器官によって生きている世界が異なり、それが人間の退屈へとつながる流れは面白くて学問だな~と感じた。

 

>読者はここまで読み進めてきたなかで、自分なりの本書との付き合い方を発見してきたはずだ(もしそれが発見できなかったなら、ここまで通読するのは難しかったであろう)。それが何よりも大切なのである。それが暇と退屈というテーマの自分なりの受け止め方を涵養していく。それこそが一人一人の〈暇と退屈の倫理学〉を開いていく。そうやって開かれた一人一人の〈暇と退屈の倫理学〉があってはじめて、本書の結論は意味をもつ。(中略)また同じ意味で、本書の結論だけを取り上げて、そこに論評や非難を浴びせることも無意味である。

 

最後の結論におけるこのくだりは一瞬説明を放棄しているようで狡さを感じてしまったのだけど、そのあとに詳しい話が出てきたのでよかった。でも案外この本に限らず、引用した部分はこういう哲学系の書物全般に言える話ではないかと思う。あと付録の「傷と運命」の再現性と自己の話も腑に落ちる説明で興味深かった。


ぐだぐだ書いたのですが、哲学の話を中心としながら様々な学問を経由して論じていく中で学問の醍醐味を味わうことのできる本、そして自分が感じていた漠然とした違和感が解説されていく点でも面白い本だったなというのが感想です。

 

蛇足ですが最近書店に行ったら文庫版が大量に並んでおり、東大京大!みたいな帯が付いていて思考の整理学(外山滋比古)のような扱いを受けていて意外だった。