nikki_20220716「読書日記その3の1 詩歌その他編」

 

曲を投稿しようと格闘していたら終わっていた日だったので最近読んだ本について書きます。三連休じゃないと長々と書く時間もとれないので…。基本的にネタバレするときは最初にそう警告します。書いていたら思いのほか長くなったので、2日またぐことにしました。詩歌なんでネタバレとかないですね。きょうは詩歌その他、あしたは小説ということで…。長いので気になったのだけ読んだり読まなかったりしてください。

 

あと長文だと引用が見にくいと感じたのでブログのテーマを変えました。

 

 

 

 

 


穂村弘「ラインマーカーズ」「手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)」「シンジケート」

 

 

歌集。有名どころであり、「ラインマーカーズ」は小学校?以来の再読。解説すると「ラインマーカーズ」はダイジェスト版みたいなもので、「手紙魔」「シンジケート」を含むいくつかの歌集が中に収められている。とはいえ丸ごとではなく、穂村氏が選んで収めているので、それぞれを読む意味はちゃんとある。

 

これを自分は本当にぜんぶ読んでいたのか?と疑問を抱く。パラパラ読みだった気もするな…。穂村弘の名前を聴きすぎて、そのフィルターなしに読めないというか、これがあの穂村弘の処女歌集か…みたいに読んでしまう節がある。性愛の歌が印象に残っていた(純粋だったので)けど、意外とファンタジックさもある。「手紙魔まみ」は広島の古本屋で、ちゃんと挿絵つきのやつを入手した。絵があるとひとつの作品として楽しめてよい。「手紙魔まみ、キモチワルキレイ」でちょっと不穏になるのすき。以下はラインマーカーズから。

 

 

「とりかえしのつかないことがしたいね」と毛糸を玉に巻きつつ笑う

 

ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘月はどらえもんのはじまり

 

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

 

「自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備のすべて」

 

自転車の車輪にまわる黄のテニスボール 初恋以前の夏よ

 

警官も恋する五月 自販機の栓抜きに突き刺すスプライト

 

 

 


暮田真名「ふりょの星」

 

 

川柳句集。この作者が個人で出してきた「補遺」「ぺら」などの句集から、そして新しい歌も追加して左右社から刊行されたもの。間違っていたらあれなのだけど、メジャーデビュー1stみたいなものだと認識している。もともと個人の句集は読んでおり、なかでも連作「補遺」がお気に入りだった。しかしこの句集では解体され、ばらばらの連作に入っている。少し残念だけど全体はよかった。帯にDr.ハインリッヒ氏(存じていないけど芸人さんらしい)が「意味深で無意味な言葉の羅列」という帯文を寄せているが、違和感がある。これらの句には意味がないよ!と規定してしまうようにも感じるけど、帯文ってそんなものかも…。

 

○○が○○、という形が多いと感じた。2つの離れたイメージを句のなかで結びつけている感じがする。文字の中だけで成立する曲芸のようで面白く、情景を想像しにくいからこその楽しさがある。これは短歌もそういうところがあるけど、川柳はより短いので単語が強調されるし、想像の余地がある。たしか前に「文學会」2022年5月号で読んだ短歌の対談で、俳句は物が中心だという発言があったけど、川柳もそういうところがあるのかもしれない。

 

みんなはぼくの替え歌でした


ダイヤモンドダストにえさをやらなくちゃ


観覧車を建てては崩すあたたかさ


プールの底の終夜運転


恋すれば筐体になるときがくる


教室に氷を置いて帰るのよ

 

 あとがきの一部にはこうある。

 

川柳を作るとき、私はさながら迷子センターのようです。
私のもとにやってきた言葉とすこしの時間だけお話して、送りだしてあげる。
誰もむかえにきていなくても。

 

かつて「川柳を作ることはUFOを待つことと同じ」という言説を人から聴いたことがあって、それを思い出した。わりと印象に残っているのだけど、どうやら短歌雑誌「ねむらない樹」の6号、p116,117らしい。

 

つまり、川柳において「誰でも今すぐ名句が作れる」といった類の鍵は存在しない。このように考えるとき、川柳を作るという営みはひFOの訪れを待つことに似てくる。「良い川柳を作る人は川柳が上手い」という命題は「多数のUFOを見た人はUEOを呼び込むのが上手い」という命題と同様に奇妙だ。川柳を作るときは皆それぞれの屋上に立ち、めいめいの呪文を唱えながらてんでばらばらの方向を見上げている。「私」の話をしている暇はない。

 

いまちょっと調べてみたら、これも暮田氏の言葉だった!思い出すのも当たり前ということだ。

 

 

 

 

雪舟えま「はーはー姫が彼女の王子たちに出会うまで」

 

 

歌集。前に同作者「たんぽるぽる」を読んで好きだったので、せっかくならと読んだ。前作とは全く異なる世界観にあり、もう穂村氏との関係も見られない。作者のバックボーンをどこまで読み込むかは微妙だが、最初にこの一連の歌を詠むに至った経緯みたいなのが短く述べられている。ゆえに読み込んでよいのだろう。とても素直で率直な言葉が、たまたま短歌の形をとって瞬間冷凍されているようだと思った。あと表紙が好きなイラストレーターさんのカシワイ氏なのも、うれしい。

 

この「声や歌…」の歌はかなり好きで、この歌集を象徴しているかもしれない。こういう生活のかけがえのなさと続いていく感じってとても好きなテーマです

 

フライ追うように走ってしあわせだ、しあわせだって退路を断って


明け方に水の音して止めなきゃと思う どうともなれとも思う


声や歌つきあう人や住む場所が変わってもまだこの星のうえ


ミルク味千歳飴買いたい買うね大人になっても自分のために


おとな、とは冷蔵庫の光のなかのひとつっきりの綺麗なケーキ

 

 

 

 

初谷むい「花は泡、そこにいたって会いたいよ」「わたしの嫌いな桃源郷

 

 

初谷むい氏の歌集。第二歌集「わたしの嫌いな桃源郷」が5月末に刊行されたため、第一歌集と合わせて読んだ。 「花は泡」は平易な言葉や日常の語彙で綴られた優しく、幸せにあふれた歌が多い。春に読みたい。

 

桃源郷」はより切なく、かつ幻想的な要素が強くなったように感じる。「夢」という語句がよく出てくるような気がするし、あとは「永遠」に対する不安みたいなものもあるような。桃源郷というのはどこにもないわけで、それと永遠はない、ということが結びついているように感じた。幽霊をテーマにした連作もあるし、頻出する花火というモチーフもあって、それも永遠がないことの象徴な気もする。さいごの連作に僕は別れの気配を感じたわけだけど、そういう別離もふくめて世界を肯定していくという姿勢なのかな、と思った。好きだった歌を引用すると50は超えるので泣く泣く取捨選択します。

 

「花は泡、そこにいたって会いたいよ」より

 

花曇り パスタを塩でゆでるのはパスタが泣いてもわからんように


カーテンがふくらむ二次性徴みたい あ 願えば春は永遠なのか


エスカレーター、えすかと略しどこまでも えすか、あなたの夜を想うよ


あっ両手はなたれてゆくまっすぐにまぶしいきみの手放し運転


もういいよわたしが初音ミクでした睫毛で雪が水滴になる


きみはもうあかるい歌しか歌わない平たい聖書を水へと溶かす


学問よ ぼくらがそれぞれ花を見てさくらと信じることもひかりで

 

 

「わたしの嫌いな桃源郷」より

 

存在しない花火のために泣くことがあるでしょう世界はこうも満ち引いて


雨が肌を駆ける ながいながいイントロのあとであたしが次の神様になる


どの恋もあなたの恋には敵わないそれが聖書じゃなかったとして


会ったことのない人を好きになったり それがすてきな切符になったり


電車を待つわずかな時間にきみだけが猫を見つけた十月の夜


短歌やめても好きだよ きみならだいじょーぶ なるべく本気でぼくにおしえる*1


結ばれ したっけ駅で待ってるね、駅がなくても、勘で、待ってるね


グッモーニン人生どうでも飯田橋人生どうにか鳴門大橋

 

 

 

 

川合大祐「リバー・ワールド」

 

 

これで詩歌はラスト。川柳句集。特徴的なのはその量で367ページあってこれだけ中身が意味不明な本って、これ以上にないんじゃないかという圧倒感があるな…。下にいくつか好きだったものを挙げるが、これだけでもよく分からない気持ちになるものが1001句続く。

 

春の雪キングコングを和訳する


広辞苑猫の頁に苺汁


卓球とジャズ永遠に室の中


ふたり降り空中都市が二ミリ浮く


しりとりでないかのように神と言う


。とは別に群像劇を始めます。


ひとりずつ七角形の部屋を出た


雨が降る鏡に無限油そば


鉛筆をあしたもなくす広島市


哲学にだまされやすい園芸部


じゃんけんが終わらないまま高い城


フルーチェを合理によって穴へ埋め


蠅を叩く道具*2


虚空から光の国のハンバーグ


円舞曲みんなバターになる途中


魔女っ娘が世界よせかい烏賊になれ


京大の麻婆丼がうつくしい


死、の文字を、もうすぐあめ、と読み上げた


消火器を遠くへ投げる性行為

 

特徴的なのは定型と過剰だと思う。575の定型にほぼ全てが収まっている。しかし、句のなかに詰め込まれた単語は多い。たとえば「爆弾を考えている強い水」という句があるのだけど、「爆弾を/考えている/強い水」という定型に収まっている。しかし「爆弾」「水」という単語に「考える」という動詞、「強い」という形容詞と四つの品詞が詰め込まれており、それぞれの連関が分からない。「アイドルが絵本を盗むきょうも雨」という句もあるが、これは「アイドル」「絵本」「きょう」「雨」という四単語に「盗む」という動詞が入っている。そういう過剰さは当然1001句という量と連関しているわけで…などと思っていたらあとがきで作者がちゃんと書いていた。

 

ただその時痛切に思ったこと、自分の川柳の三要素は〈喪失〉、〈過剰〉、〈定型〉なのだという妄念は今も消えていない。おそらくこの妄説を抱えたまま僕は生を終えるだろう。それくらいの覚悟はできている。それでも、僕は喪うものを喪いすぎてしまった。

 

 

 

 

永山薫「増補 エロマンガ・スタディーズ: 「快楽装置」としての漫画入門」

 

 

唯一の評論。単純に成年向け漫画の評論ってどんなのか気になったので読んだ。「漫画入門」とあるように、どちらかというとエロ漫画を通して漫画の歴史を辿っていくみたいな本だった。とはいえ不満足ではなく、漫画というもの自体に親しみのなかった人間なので興味深く読んだ。手塚治虫から始まり、ロリコンからSMなどがどう受容され規制され分化していったかみたいな話が書いてある。ちなみに解説はあの東浩紀氏。いっしょに買っていた稀見理都『エロマンガ表現史』(いま読んでいる)のほうが僕の想像していた「エロ漫画の評論」に近いけど、また読書日記を書くときに感想を書きます。

 

読んでからわりと時間が経っていてあまりメモとかしてなかったのだけど、随所に興味深い記述があってよかった。そもそも美学とか評論の本を読まないので、こういう感じだよ~と教えてもらった気分に近い。

 

>p115 問題は言葉の意味ではない。なぜ、「好き」でも「愛」でもなく「萌え」が使われるのか?ということを考えなければ「萌え」の核心には接近できない。「萌え」をストレートな愛情表現として使用する者もいれば、逆にまったく興味がない対象に使用する者すらいる。両者の間にはなだらかなグラデーシヨンが描かれるが、発話者がどこに立っているかは自己申告に任され、その真偽を質すことなく了解することがオタク的コミュニティにおける暗黙の了解事項である。互いの趣味嗜好を尊重し、必要以上に相手の内面に踏み込まないことが最低限のルールなのだ。これは端的にいってしまえば傷つきたくないという意思表示である。「萌え」は婉曲表現であり、対象を指し示しながら、実はそれが実体ではないかもしれないという含みを巧みに持たせている。「萌え」はカミングアウトではなく、あくまでも対人関係というゲームを円滑に運ぶためのフラグである。

 

 

ここについては過去の日記で触れていた。

 

「発話者がどこに立っているかは自己申告に任され、その真偽を質すことなく了解することがオタク的コミュニティにおける暗黙の了解事項である。」「これは端的に言えば傷つきたくないという意思表示である」というのが面白い。「萌え」という単語を使うと、対象に対する愛の深さみたいなものに言及せずに会話できるという意味だと認識している。

 

「傷つきたくないという意思表示」として単語を用いるのは「推し」とかも同じなんじゃないだろうか。「推し」という言葉を使えば、その深度は問わずとも「好きな存在」として共通了解が得られる。それがアイドルでも、二次元でも、動物でも、果ては非生物でも「推し」と括れば会話は成り立つ。「傷つきたくない」ということが若い世代のコミュニケーションの根幹になっているみたいな話は、以前ほかの場所でも目にした。本音で本質的なことを語り合うのではなく、あるものを媒介にして話すことで傷つくことを避けている、みたいな話だった気がする。

 

p128 まず、最初に、我々がエロ漫画に限らず創作物と向き合う時の視点が最低二つあることを再確認しておこう。/第一の視点は神の視点であり窃視者の視点である。第三者として作品を見通し、登場人物が気付かないことまで知っている特権的な視点である。/第二の視点は自己投影によってシミュレートされた登場人物の視点である。自己投影は必ずしも固定的ではなく、主人公以外にも振り向けられるため、第二の視点には複数の視点が含まれる。/重要なのはこの二つの視点が「読み」という行為において同時に進行するという点である。しかも同一化が登場人物個別に行われるだけではなく、その間を揺れ動き、スイッチングし、濃度の差異を刻々と変えながら複数の登場人物に対して行われるのである。

 

以下は「苺ましまろ」(これは僕が電子書籍で過去に血迷って全巻買ってから放置されている)について。わりと当たり前といえばそうなのだけど、そうだねとなった。

 

p301 この漫画を読む楽しさは、勝手に遊ぶ小動物を眺める気分に近い。主要な男性キャラクターは存在せず、しかも少女たちの内面描写が極めて薄いため自己投影にはかなりの努力を要するだろう。おまけにそこには「成長」もないから育成ゲーム的な意味での疑似インタラクティヴな感覚も薄い。読者はただただ可愛い少女たちの無限に引き延ばされた日常を覗き見するだけだ(図80)。構造的にいえばピープ・ショウであり、読者の立ち位置はまさにササキバラ・ゴウの「視線化する私」である。読者の視線にペドファイル的な欲望が含まれていたとしてもなんら不思議ではないが、むしろそれは少数派だろう。「視線化した私」の欲望の対象は女の子たちであると同時に、いや、それ以上に「かわいい女の子たちが戯れる居心地の良さそうなハーレム空間」である。そこには「私」を脅かすリアルな異性も同性も存在しない。失敗して自分が傷つくことになるかもしれないセックスもない。「私」は二重三重に守られた「視線」として、幽霊のように「女の子で一杯の世界」を彷徨い歩く。これは言い換えれば不能者のハーレムである。

 

 

Twitterで引用したこことか面白かった。あまりに卑猥なので解説はしません…。

 

 

 


おやすみなさい。

 

 

 

 

*1:「ぼく」には「きみ」というルビがついている

*2:ミスではない。