nikki_20230417「小川洋子『薬指の標本』」

 


小川洋子の代表作といえば『博士の愛した数式』で、小学校のころ父の本棚にあったそれを読もうとしたことがあった。当時は算数が好きで登場する友愛数などの概念は面白く読んだのだけど、やはり難しかったのか最後までは読めなかった。ただ、家に来た人が爪を机にコツコツしてマニキュアの粉が落ちていく描写があったというよく分からない細部が濃く印象に残っている。

 

薬指の標本』は短編集であり、表題作ともうひとつ「六角形の部屋」という短篇をおさめている。これが小川洋子を読んだ2冊目(ちゃんと読み終わったのは1冊目)になった。恋愛小説といえばそうではあるけれど、幻想小説だと思った。様々な場面とそこで出てくる小道具たちがひとつの話のなかでコラージュされて響き合うようで、絵を見ているような不思議な感覚がある。血で桃色に染まったサイダーの瓶で揺らめく薬指の先。浴槽の底で履いたヒールのある靴。火傷の跡について相談に来た少女と話すときに出されたレモネードとピーナッツチョコレート。床に散らばった活字盤の文字たち。これらが「薬指の標本」には登場する。それらのものたちがいちいち魅力的だった。

 

物語のあらすじとしては主人公の少女(ずっと大人びた印象を抱いていたので同い年でびっくりした)が「標本室」で働くことになるというもので、一度薬指を失っているといえど、こんな簡単に就職先が決まったらいいのにな……というのが最初の感想だった。結末を読んでそんなに甘い話はないよな、と思ったけれどそういう教訓の話ではない。ただ浴槽の淵から見上げる彼が靴を地面に叩きつけたり、落とした活字を一晩拾わせるのとか、優しい顔をしつつ相手を洗脳していく不気味さがあったなと思う。相手の弟子丸氏については内面が分からないのがまた不気味で、彼女の一人称にはロマンチックに見えているけれど、これってだんだん狂わされていく怖い話なのかもしれない。特に印象的だったのは上述した活字盤のシーンだった。

 

「六角形」の部屋は最初の導入から百合かと思ったのだけど、そうではなかった。これもかき氷の器、オーブントースターの底から出てきた脂の染みとパン屑と埃にまみれたチケット、誰もいない陶器の仕事場で知らない男と関係を持つ描写の乾いた感覚など、道具がよかった。特に印象的だったのは幕切れだった。最初とおなじプールに舞台は戻りつつも何かが違っていて、その映像がすっと浮かんでくるようで良かった。

 

>しばらく経ってこちらを見つめていた老婦人は、腕を下ろし、背を向け、大きく息を吸い込んでから水の中に潜った。小さな泡が浮き上がってきた。そして彼女は静かに、水音も立てず、平泳ぎをはじめた。どこまでもどこまでも遠く、泳いで去っていった。