nikki_20230404「4」

 

親と連絡をしていて、親戚が飼っている犬の状態がよくないということを知った。少し前に下半身が動かなくなった、と聞いていたがそれからわりとすぐに悪化したらしい。長く生きていたのでおそらく老衰のようなものだとは思う。親の話を聞くと飼い主である親戚はその犬に助けられたところがかなりあるようで、そろそろ来るとは分かっていたけれどやはりきついものがあるのだろう、と思う。

 

申し訳ないのだけど正直に話をきいて思ったのは、だからペットなんか飼わない方がいいのになということだった。それだけ厳しい思いをするくらいなら最初から飼いたくないよなとなってしまう。けれどもその辛さよりも、ペットから受け取った幸福の総量のほうが圧倒的に多いのだろう。もともとペットに関してはあまり肯定的ではない。しかし親戚とは別で実家でも犬を飼っているわけで、その実感からすると先に提示した仮説(ペットから受け取る幸福のほうが死の悲しみよりも大きい)はわりと正しいのかもしれない。ただやはり肯定しきれない気持ちで犬とは接し続けていて、実際に実家の犬が亡くなったときどうなるんだろう、というのはずっと目を背けている課題でもある。親戚が飼っているほうの犬は家を訪れる度に触れたり撫でたりしていた。本当に小学生のころからで、確かに長かったなという思い出がある。ただそれはその飼い主に比べたら圧倒的に短い。実家で買っているほうの犬は、私が高校に入ったくらいに飼い始めたと記憶している。いま私は実家を離れていて、そろそろ犬と家で過ごした時間よりもひとりで暮らした時間の方が長くなってくる。ゆえに亡くなるころには親しみもなくなってしまっているのでは、という怖さもある。

 

こうして書いていてやはり死ぬことってずっと目をそらし続けてしまうことだなと思う。向き合うのって怖すぎる。またいつか日記に書くと思うのだけど、大阪にある国立民族学博物館で行われていた「ラテンアメリカの民衆芸術」という展示を先日に見てきた。いろいろ考えたことはあるのだけど、展示の中では祭壇や死者を弔うための装飾もたくさんあった。そこでは死がかなり華やかに、賑やかに飾り付けられているものが多かったのは印象に残ったことのひとつだった。スペインの方では骸骨がポジティブな意味合いを持っていたりするらしい。結局正解はないので、それくらいあっけらかんと死について考えることもひとつの在り方ではあるよなと思う。

 

坂本龍一氏の訃報があったのもここ数日の出来事だった。しょうみ片手で収まるほどの曲しか知らないのだけど、SAKEROCKが好きな身としては「千のナイフ」の印象が強い。SAKEROCKがこれと『妖怪道中記』というゲームのテーマをマッシュアップした曲を出しているからだ。なんというかだんだんよく知っている人が亡くなっていくなと思う。これが年をとるということなのか、それとも普通に世間的によく知られている人が亡くなる割合が高まっているだけなのか、よく分からない。4/4に死の話をするのはどうかと思ったけど書いた。結論も落ちもつけられないので強制的に終わります。