nikki_20220424「おとぎ論」

 

 起きたのはたしか午前だったのだけど、夜ご飯を食べないままずるずる朝まで起きていた。作ろうとしていたカップ麺をどうしても豪華にしてから食べたくて、そのためにコンビニへ行く必要があった。しかし外へ出る気力が起きないまま、何もせずに夜は明けた。そうして朝方にコンビニへ向かったのだった。なんとなくどうでもよくなって、スイーツの棚にあったひんやりたい焼きを買って道端で貪りながら朝方の街を徘徊していた。

 

 

 

 

 n-buna「月を歩いている」をずっと聴いていた。いつから恒例になっただろうか、毎年春に聴いているボカロのアルバムである。春の夜のしっとりした空気に合うようで、今年はそうして夜通し流していた。流れるピアノを基調とした音楽の美しさ、最後の「エピローグ」はピアノのインストなのだけど美しさが極まって溢れるようだ。泣きそうになっていた。

 

 このアルバムにはいわゆる「おとぎ話」、童話の世界観を下敷きとした楽曲が多数収録されている。中にはおとぎ話を書く主人公がいる曲もあるのだけど、そういう話を書くのは思いのほか難しそうだ。なんとなく字数も多くないゆえ、普通の小説より楽なイメージがある。しかし、おとぎ話というのは案外難しい。

 

 まず、平面的でなければならない。これは過去に読んだ本(石崎洋司「黒魔女さんの小説教室」だと思う)に書かれていたことだが、昔話の平面性という言葉があるらしい。昔話においては登場人物の心情などの詳細は省かれ、ただ出来事だけが綴られる…というものだったと記憶している。昔話自体は伝承されたものだ。さながら石がどんどん丸くなるように、細かい部分は失われていったのかもしれない。そして、話を聴く児童にとって「細かい部分」はおそらくないほうがよい。桃太郎が犬を仲間にしたとき、道端に咲いていた花が風に吹かれたことに幼児は興味を示さない。鬼が倒されて泣いたとき、風が吹いて波が岩を砕いた描写を入れても、彼らはその意図を理解してはくれない(人間は情景描写をどのようにして理解していくのだろう、という疑問がある)。つまりおとぎ話を書くならそのような部分は廃して書く必要があるはずだ。もちろん教訓を入れるのであれば、多少の感情描写が必要であろうけどそのバランスは通常の小説とは異なる。

 

 そして、子供が分かる・面白いと感じる話でないといけない。子供が分かるは前述した通りだが、「面白いと思う」は難しい。子供が何に興味を示し笑うのか、というのは最近考えていることだけど本当に分からない。その目線に立って面白さと分かりやすさを追究することを想像すると、骨が折れる。ある意味いちばん優しい物語作家が絵本作家なのかもしれない。

 

 しかし突き詰めて考えると、どんな物語も「相手に分かるように・面白いと感じるように」書かれている。その作者と読者を隔てる壁をなんとか乗り越えようとする試みは、絵本のおとぎ話も純文学もおそらく変わらない。そう思うとおとぎ話ってなかなか書けないな、と日が昇る近所を歩きながら考えていた。おやすみなさい。