正午くらいから労働をして、18:00くらいに家に帰った。複数の都合が折り重なった結果、これからほぼ毎日は家に帰るのが19:00とかになりそうである。家を出るのは午後になる場合が多いので、大したことないといえばそうなのだけど慣れないし、これまでの生活からいって正直続くか怪しい。帰ってから爆速で時間が過ぎて寝るべき時間になるので、社会人もこうなのかなと思ったりしていた。日記も続くか怪しいですが頑張ります。
先日書店に行って「同士少女よ、敵を撃て」「彼女。百合小説アンソロジー」を買った。どちらも話題書だと認識しているので、なんとなく買うのに気恥ずかしさがあった(別にそのせいではないけど、単に並んでいたのでセルフレジで会計をした)。重松清、池井戸潤、東野圭吾などの現代日本を舞台にした人情とか痛快な勧善懲悪、ミステリだったりの作品が世間で広く読まれて売れているのは分かるのだけど、同志少女のような外国を舞台にした戦争小説というものが(昨今の情勢とは関係ない段階で発売されて)広く読まれている、というのは直感に反するというか意外だなという気持ちがある。あと早川書房の本が本屋大賞になったりするのも、レアな気がする。わりと広く読まれるには難しい内容な気がするけど、これは僕が歴史に疎かったり外国を舞台にした小説を読まないからかしらん。それとも広く読まれている、という情報は半沢直樹とかのレベルとは少し違うのかもしれない。
僕は比較的読書というものに対するアンテナが敏感(これはたくさん読んでいるということを意味しない)だと思うのだけど、普段小説を読まないような人と読書の距離感というものは気になるところがある。そもそも一般・普通なんてものは存在しないことは分かる。しかし読むのはどういうときか、読むなら一気に読むのか、一番はどうやって読む本を決めるのか・なぜ読もうと思い立つのかetc.気になることは多い。
母がわりとそれに該当しているかもしれない、と思う。母は本といっても雑誌などをよく読む人だったのだけど、小説を読んでみようと思い立ってからは坂木司「和菓子のアン」を読んだりしている。わりと「和菓子のアン」はポピュラーな作品だと思うのだけど、やはり新刊・話題書だったり文庫コーナーに平積みされている本、というのは入り口になりやすいのだろう。そこから同じ作者や似た雰囲気の作品・エッセイをたぐっていて、なるほど読書にそこまで慣れ親しんでいない人はこうして次の本を見つけていくのかもな、と考えたりしていた。
僕はというと小学校のときに島田荘司の短編や綾辻行人の館シリーズを数冊読んでから推理小説を読むようになったのがきっかけで、それから断続的に読書をしている。その過程で何回か名前が出てきたりした作品だったり、ブックガイドやSNSで見た作品などが知識として蓄積されているのに全然読んでないため、次に読みたい本が膨れ上がっているのだけどこれは一般的なのだろうか。おやすみなさい。