nikki_20220318「接種失敗/絵と視線 など」

 

 朝からワクチンを接種する用事があったので会場へ赴いた。しかし、接種券がないので断られて延期した。住民票が実家にあるので郵送してもらう必要があったのだが、家族が仕事や精神的な問題などで大変らしく、送ることが叶わなかったという。わりと心配ではあるのだけど、電話や連絡などで話したりはできたのでよかった。1回目も(こちらは単に知らなかっただけで)接種券を忘れて、しかし受けることはできたので今回もパスできるかと思ったら無理だった。接種券と予診票が一体になっているかららしいです。事前に家族が券を送れないと予期して接種予定を先延ばしにすればよかったのかもしれないが、そこまでやるのは考えすぎというものだろう。

 

 

 

 

 副反応で寝床に伏せることを考えて予定を入れていなかったので、突然に空白ができた。服などを買いに行った。この日は平日かつ全国的に風雨が激しく、人が少ないだろうというのもあった。そうだった。ちなみに自分で服を買いに行った経験は片手に収まる回数しかない自信がある。それはよくないだろうという意識、あと単に春先に着る服がそんなになかったのであった。思ったより服は高く、1万円ほど持って行ったけどぜんぜん足りなかった。こんなに高かっただろうか?

 

 

 

 

 先取りして副反応ダウン用の一式をドラッグストアで購入した。風雨で店先の商品が濡れたためシャッターが閉まっており、店内は個人経営の古本屋みたいな狭さであった。そのような状況で行くことは迷惑だったかもしれないが、対応してくださった店員に感謝したい。そうして家に帰った。着ていた服などかなり濡れたが、とりあえずよかった。

 

 

 

 

 なんとか読み切ろうとしている二階堂奥歯「八本脚の蝶」にこのような話があった。『サー・ローレンス・アルマ=タデマ』という画集についての話である。2003年1月6日月曜日のものである。

 

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 人間は景色を眺めるとき、全方向的にピントを合わせることはしていないし、そもそもそれは機能的に不可能である。特に注意を惹かれた点にピントが合い、その周囲の風景は徐々にぼやけていく。しかし、アルマ=タデマの絵は、すべての部分にピントが合っているのだ。それも尋常ではない精度で。

 

 これは過去に日記で述べたことに似ていると思った。

 

 関連するような話だと、僕はTwitterなどで萌え絵を見ることが多い。一種の趣味のようになっているのだけど、実際に他者をじろじろと現実で見ることは倫理的によくないこととされている。しかしイラストのなかの人物はじろじろ見ても何も問題はないはずである。この2つの差を考えたときに、現実における視線はかならず一箇所しか見れないという気づきがあった。現実の人間をみるとき、かならず体のどこかの部位に視線は集中してしまいやすい。対してイラストは人物の全体を雰囲気として感じ取れるというか、とても感覚的な表現だけどそう感じた。もちろん現実の人物の全体を見ることは不可能ではないが、わりと難しい気がする。それは現実において人が長時間静止していることがないからだろう。だから美大とかで現実のモデルをデッサンするのとか、普段は動き回っている人間というものをひとつの像として全体の雰囲気をつかむという、特殊な営みっぽいなと思ったりした。

 

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 人間の目は、あるものの全体を見ている時間と部分を見ている時間では後者のほうが多いはずである。全体を大きくとらえるより部分を見るほうが時間はかかるだろうし、当然のことである。しかし二階堂氏が述べているアルマ=タデマの絵に限らず、絵(とくにTwitterなどで流れてくるイラストや、人物画・風景画)というのは全体を細部まで描いている場合が多い。これは書き手が超越的な力で全体と部分を同時に見て一気に書いたものではない。部分を見た時間が絵の中で集積して全体を描き出しているのである。そうなると絵というのは対象を観察した時間の集積だと言える。これを生かした試みというのは既にあり、複数の角度からみたものを一枚におさめるキュビズムとか、漫画で流れる動きを一枚に収める異時同図法などがそうだろう。前日に美術館を訪れるときに考えて、絵を見てさらに実感したことだった。

 

 絵についてはここらへんでも言っていたなと思う。しょせん書いていない人間の書き散らしですが…。

 

isitsutbustu-todoke.hatenablog.com

 

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 おやすみなさい。

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