1か月近く更新できてなかったのは忙しかったからではなく、むしろ真逆だったと思う。何もする気が起きずぐだぐだしているのが2月前半で、後半に差し掛かりつつある今は順当に忙しくなりつつある。元旦に祖父が亡くなったあと、もう一人の祖父が倒れたとの報告があり、先日亡くなったので葬儀に急遽行ったりしていた。
なんとなく書きにくくて避けていたこととして、少し前にレポートのコンクールのようなもので賞をもらった、ということがあった。応募するだけで参加賞として数千円もらえるようなもので、資金を使うために設けられてるのではと思う。就活の適当な自己アピールのような文章を書き、応募総数が10人にも満たないようなそれで一番上の賞を貰った。想像はつくだろうが賞金目当てで応募したため、困惑の方が大きかったわけである。家族にも言うほどではないと思って特段連絡もせず、ちょっとしてから伝えた。当然といっていいのか喜ばれ、祖父が亡くなったのはその後である。コンクールの件は祖父にも伝わり、病床でその文章を読むことを欲していたらしく、わざわざ印刷したものに目を通していたという。メールを介して言伝された感想には、生きる希望をもらったことや才能がある云々とあり、それが最後に受け取った言葉になった。特に強い思い入れのあるわけでもない文章が重みを持ったものになったことには戸惑いがあり受け取りあぐねているところはあるが、こうして自分の文章が褒められるようなことはこれまでの人生で何回かあった。それにすがってこのブログで書きつづけているところがあり、またひとつそのような経験が増えた。
もうひとりの祖父についてはレコードプレーヤーを貰おうと思ったが、既に捨てたらしくラジカセを譲り受けてきた。CDを入れて止めずに最後まで再生する経験はパソコンだけだと意外としないので嬉しく。かつて通っていたTSUTAYAに行ってレンタル落ちのCDを買ったりしたので、聴いたりしようと思っている。
正直どちらの経験もあまり実感がなく、今もそうである、葬儀や亡くなることについては1月にも書いたので深くは書かないが、夫婦の片方が亡くなったときに喪主がもう片方なのはすごいと思う。血のつながった人々がたくさんいて集まる中で、最終的に弔うのは血のつながっていない他人というわけである。血のつながりって重要ではないのかとか、ここから色んなことが引き出せるのだろうけど、とりあえず不思議で強固な何かを見た気がした。
私の家には神棚があり、小学生くらいのときは毎日手を合わせるのが家族の習慣だった。別に宗教色が強いわけでもないため、今はそうでもなく、ことあるごとに手を合わせている。当時はみなが元気で世の中が平和でありますように、と呪文のように唱えていたのだけど、あるときそれもどうなのかと思った。人はいつか亡くなるし、だんだん元気でなくなるし、世の中にはどうしようもない事故や災害もある。そこでみなが元気であるように、自分が何事もないように、と願うのは欲張りすぎるのではないか?と中学校くらいのときに思って、以後お墓参りも初詣のときもそうは思わなくなった。ただただ何かそういう存在が私たちを見守ってなんとなく良いと思える日々を過ごせますように、みたいなふんわりしたことしか考えていない。ただそれでも、もう今年は葬儀に出るようなことがないといいなと思う。