nikki_20230118「映画『その街のこども 劇場版』」

 

 

Twitterで存在を知り突発で夜に見に行った。映画を見ることも今年の目標であるため。シアターセブン(十三)で観たのだけど、毎年この時期には再上映しているらしい。

その街のこども』(そのまちのこども)は、NHK大阪放送局制作による「阪神・淡路大震災 15年特集ドラマ」として、NHK総合テレビで2010年1月17日の23時00分 - 24時13分に放映されたテレビドラマ。阪神・淡路大震災から15年が経過した神戸の街で、ふとしたきっかけで出逢った男女が、お互い持っていた「あの時の記憶」をさらけだす。第36回放送文化基金賞番組部門テレビドラマ番組本賞受賞作。/『その街のこども 劇場版』として2011年1月15日に劇場公開された。

その街のこども - Wikipedia

 

まず、冒頭の震災の映像で個人的にかなりしんどくなってしまった。実際に子供がクレヨンで描いた震災の絵(人が血を流していたり、人が乗ったままの車が燃えている)と火災を報道する当時の映像がフラッシュバックのように次々と写され、時報とともに画面が暗転して家屋が倒壊する音がバリバリバリと流される。おだやかな映画だと思い身構えずに見ていたら、いきなりそれが来たので衝撃は大きかった。真っ暗なシアターにおいてスピーカーが真正面にある最前列だったので尚更だった。

 

言い方がよくないかもしれないがそのシーンを見て反射的に無理だな、と感じた。無理だなというのは近いうちにこれと全く同じことが自分の身に降りかかるんだな、という得体のしれない恐怖だった。本気でシアターから出て行こうかなとも思ったが、そのあとはある程度コミカルなやりとりを挟みつつ男女が合流するまでの過程が描かれたので見続けた。津田寛治氏が嫌な上司を演じるのはスカッとジャパンあたりの影響っぽくて懐かしい。

 

しばらく見ていると再度、崩壊した町並みの映像が現在の街並みとダブらせるようにして描かれた。その光景のショッキングさもだし、最近すこし話題になっていたがテープ越しのぼんやりしているけど彩度だけ高いような、ノイズの乗った映像の質感がどうしようもなく怖かった。似たような演出が繰り返されるのではと怖くなってしまい、耳を半分ふさぎながら最後まで見た。

 

話の内容に触れると、メインは夜の街を歩きながらだんだんと二人が過去と向き合っていく過程にある。個人的に夜の街を長く歩き続けるのは何回かやっていて好きなので、その雰囲気を期待しながら見た。いい意味で予想していたものとは違った。もちろん肉まんを買ったりと夜の街を歩くワクワク感はあるが、だからこそ会話の端々に見える震災の記憶が際立っている。高架下で貨物列車が通過する轟音に驚いてしまったり、ある地域に入っただけで反射的に無理だと言葉が出てしまう描写などは苦しかった。それらの見え隠れする過去がいつかまた溢れだして、冒頭のような描写が出てくるかもしれないと最後まで怯えていた。

 

佐藤江梨子氏が演じる大村美夏はそのなかでだんだんと震災で亡くした親友のことを語っていく。それが悲しいというより、「不幸」そのもののやりきれさなさが辛かった。台詞にもあったように「不幸に法則はない」というのは本当に分かって、そのシーンで巨大ななにかによって突然人が亡くなったりする不条理が一気に思い浮かんだ。最近見た「すずめの戸締まり」もそうだし、京都アニメーションのことなど、もうどれだけ考えても途方もないくらいに悲しくなる。

 

一方で森山未來氏が演じる中田勇治にも過去があり、屋根屋をしていた父が震災のときに修理費を10倍にしたせいで家が周囲から孤立して、神戸から逃げたというトラウマを語る。しかし、最後に追悼行事に参加するかと問われた彼は「また来年にする」と答えて会場を後にしてしまう。個人的な解釈としてはまだ語っていないトラウマがあるのだと思っていて、その理由は途中で挿入された会社のシーンがあるからだ。建築会社に務める彼は、上司によって建築模型のレイアウトを崩され地面に人形が散乱する様子を凝視していた。さらに震災当日のこともあまり語ろうとはしない。冒頭で示されたクレヨンの絵は彼の記憶なのではないか?と思ったが、クレジットで実際の絵だと分かったので違った。ただやはりなにか言い切れていない部分があるのではないか。最後に美夏と抱擁を交わした際に少し泣きそうになっていたことからもそうではないかと推測する。

 

おそらく彼の中では少しだけ過去に向き合う姿勢が整ったものの、まだ本気で向き合えないのだろうと解釈した。そこが強烈だった。「2人ともが過去と対峙して追悼のつどいに参加して終わりました」ではなく、まだ過去に対峙しきれてない人もいるという生々しさを残して終わる。語ることのできていない部分にどれだけの恐怖があったのだろうと、想像するだけで嫌だった。シアターが明るくなったあとの第一声が「怖い」だった。

 

人を亡くすことだけではなく、強調されるのはふたりの歩く神戸の街並みでもある。それが一度は失われたという事実が歩いて行くたびにひしひしと伝わってくる。

 

ほかの作品の名前を出してしまうが、京都アニメーションの「聲の形」と同じ怖さを感じた。「聲の形」は個人的にはハッピーエンドだと思えていなくて、それはあくまで結末では主人公と周囲との和解が示されただけだからである。それでいじめという罪や傷が無くなったわけでもない。和解していく過程でも人と人との分かり合えなさをずっと突きつけられたのが印象に残っている。この映画も、そういう直視したくないものをこれでもかとナイフのように突き付けられる感じがしてしんどかった。

 

運命やラプラスの悪魔のようにすべてが決まっているとは微塵も思わないが、巨大な不条理がずっとあるなと思う。美夏の「思い出すのが辛くないようにする」という台詞もあったが、それには心から賛同できるとは思えなかった。不条理から目を背けるのも違って、でもすずめのように「大丈夫」と言い聞かせ続けることもそう簡単じゃないなと思った。理不尽に何百人もの死者が出るような世界で「世界は美しい」と思える自信もなくなってしまった。

 

何故こうしてたくさんの人が集まって追悼なんかしないといけないのか、何故ふたりは涙を流したり言葉を濁したりしないといけないのか、怒りを通り越してずっとやりきれない気持ちに襲われていた。映画を見ていて涙が出たが、感動というより不安と恐怖からくるものだった。巨大な不条理とどうやって付き合えばいいのか本当に分からなくなってしまって、映画を見てから数時間この文章を書いても気分が晴れずにぐったりしている。

 

ほかの人の感想をちょっとだけ見ると震災を経験した人にしか語れない、安易には言えないとあって本当にそうだと思う。私も震災は経験していなくて、だからこそ上に書いたことも説得力はない気がする。それでも記録としてこの感想を残しておく。