nikki_20231207 三浦哲郎『拳銃と十五の短篇』

 


自分にとって三浦哲郎は「盆土産」の人で、というのも何も特別ではなく中学校の教科書に載っていたからである。たぶん近しい年代であれば記憶にある人も多く、そうでもなくてもえんびフライという単語だけ覚えている人もいそうではある。たぶんなにかでこの人には拳銃という短篇があって父の遺品の拳銃の話である、というのを知ってから気になっていた。あとはなんとなく本の題名がかっこいい。たまたま古本として売っているのを見つけたので買った。タイトル通り16の短篇が入っている。

 

過去に「別にそのことを話したところで人の心を打つわけでもない、かといって完璧に面白くないと言い切ってしまえる不快さもない、はい。としか言えない出来事って本当にたくさんある。」とここに書いたことがあって、このときそういう出来事が小説になっていないのが気になっていると述べた。いまはもう少し興味が広くて、そういう出来事の価値ってなんなんだろうというのが常に頭にある。話したり書いたりしなければ忘れてしまうような、どうでもいいことのほうがたぶん生活の中では大半だけど、それって忘れていいのか、なんかもったいないなと思ってしまう。たとえば100年後に当時の記録として残るとか、そうでなくても明日すぐに世界の状況が一変してしまう可能性だってあって、「その後」の世界のために記録として残しておくべき、というのはわかる。でもそうじゃなくても、もっとこう近い、なにか根源的なところで大切なんじゃない?というか……単にそういう話を自分が好きなだけかもしれない。

 

ここにある短篇はそれに対してちょっと答えてくれたようでうれしかった。どれも様々な家族に関する話で、人生が大きく変わるわけでもないけど、ちょっと気持ちが揺らぐ、くらいの出来事を描いているものが多い。「川べり」は家の前の川沿いをいつも散歩している目の不自由な人がいて、それとは関係なしに近くの家の人が亡くなったと妻から聞くという話。「石段」はかつて自分の子供が石段の前の道路で転んで、今度は同じ石段で犬の散歩をしていたらまた転んだという話。「おおるり」は飼っている鳥を籠に入れ、近くの病院に声がよく聴こえるよう高い場所に置いてほしいと女性から頼まれるが、それはもうすぐ亡くなる夫のためだったと分かる話。「義妹」はゴルフ場の前を通ったとき、義妹がそこで働いていることを思い出し、これまで彼女が自分たち夫婦の家に逃げてくることが何回かあったと思い出す話。。足の小指の爪が少しはがれたことから大きな病気が発覚する「小指」なんかは一番印象的で、下手な大怪我より爪の些細な怪我のほうが、実感があるぶんより描写を痛々しく感じるということが分かった。じっさい読み進めるのもちょっと嫌だったし、家で小指をぶつけたときすごい怖くなってしまった。どれもどこにでもありそうな話であるが、ただ「絶妙なあるある」とかの類とはまた違う地味さがある。そしてたぶん誰かに話すほどのことでもない。でも、それが小説として描かれることに独特のうれしさがある。

 

ところどころのディティールもよくて、「凧」では歯痛で悩んでいたところ電話でテレビ関連の知り合いから歯科医師になった俳優を紹介されるが、その知り合いはのちに失踪してしまう。痛かったので電話で紹介されたときには話せず、すべて語り手の妻がその紹介を聞いていた。ゆえに最後の会話ができなかったことを語り手は後悔する。あらすじだけだとミステリっぽいが、「歯痛で悩んでいたら歯科医師になった俳優を紹介される」というエピソードがかなりいい。そこが「歯科医師になった俳優」である必然性はないし、おもしろポイントとして描写されるわけでもない。そしてこの失踪についての真実もわからないまま終わる。劇的な物語ばかり読んでいると忘れてしまいそうだけど、実際の日常ってそんなものだったりする。

 

これは危篤の状態にある人間が突然「シュークリーム」と叫んだという「シュークリーム」にも通じるものがある。真相は単に救急搬送されるまえに冷蔵庫に入れていたから気になったというだけである。「拳銃」もどうして遺品に拳銃なんかがあったのか、は単なる推察で終わるし意外性もないが、だからこそ語り手にのしかかるものがある。確かにシュールだったり意外だったりするけど日常ってそんなものだよなというしみじみとしたよさのことに思い至らせてくれる。

 

「拳銃」のつづきである「河鹿」では語り手が拳銃を持ってみて、いろいろ触る場面がある。ふいにこめかみや心臓に銃口を当てようとしたけどできなかった、というくだりが好きだった。わかるなーというのもあったのだけれど、そこから語り手は自分以外のきょうだいが全員自殺や失踪をしていることに思い至り孤独を感じる。そうして拳銃を処分することにした前の日、銃から河鹿の声が聞こえた気がして、小さい頃に父と行った釣りを思い出す。ここのイメージの流れと描写がとても美しくて良い。

 

最後の短篇である「化粧」でなぜか読んでいてぐっときたところを引用して終わる。語り手の姉は先天性の色素欠乏症で、二人暮らしの親に髪を黒く染めてもらわないといけない。しかし親は病気になり髪を染める相手がいなくなってしまう。語り手は姉の事情について知らない長女とともに姉のもとを尋ねる。その寝る前の会話である。

 

「ほら、うちのお母さんなんか、なかなか美容院へ行けないでいると、生え際のあたりに白髪が目立ってくるでしょう。ところが、伯母ちゃんは、お母さんより十いくつも年上なのに、白髪が一本もないのよね。だから、やっぱり染めているのかなあと思って、訊いてみたら、染めてるんだって、美容院で。」
 私には、長女の明るい口調が慰めであった。そうか、姉はひとりで町の美容院へ出かけるようになったのか、と私は暗がりに目を開けていた。
「それはちっとも構わないんだけどね」と長女はいった。「なにも私たちが帰るからって、美容院へ行くことないでしょう?」
 私は、自分たちの厄介な血筋について子供と語らなければならない日が、もうすぐ間近に迫っているのを感じながら、
「そりゃあ、そうだ。ごく普通にしているのがいい。家族は、それがいちばんいい。」
 といった。