nikki_20231001「無題」

 

1001というのは線対称でうれしい。10月になったら買い出しに行く、それまでは我慢すると決めてコンビニでカップ麺を買ったり、カレールーを買って本当にひねりのないカレーを作ったりして食べている。結果、カレーを4食連続で食べたり、カップ麺と白米、味噌汁と白米、という簡素な育成ゲームみたいな食事ばかりここ2週間ほど食べていてあまり気分が芳しくない。結局買い出しに行った方が節約になるんだろうけど、難しいことが考えられない。

 

創作が(創作以外も)行き詰まる感じがあり、文フリで買ったりした短歌の本をひたすら読んだ。また感想は書くのだけど、阿波野巧也「百日百首」は1日に日記と歌をひとつずつ書く、というのを100日続けた記録の本であった。1月の京都文学フリマで買ってから積んでいた。このはてなブログにしてもそうだが人の日記はちまちま読んでいるのでこれも楽しく読んだし、本の体裁で他人の日記を読むのもはじめてで興味深かった。「ツイートした」「スペースに参加した」ということが日記に書かれていて面白かった。スペースはたしかに分かるのだけど、自分の場合ツイートが生活に溶け込んでいるので、行為として記録に残されているのを面白く思う。もちろん筆者は逐一ツイートしたら「ツイートした」と書いているのではなく、それなりに内容が大事で厚みのあったものについてそう書いているのだろうけど、自分の場合はそこまでのものになるとブログに書いてしまうし、なんというかツイッター観は人それぞれだよねと思えてよかった。

 

触発されてやっぱり来年から毎日日記を書くのを再開したい気持ちも湧いてきた。一日一文字とかでもいいから溜めずにこなす・ハードルを下げることと、あとは生活リズムが整いそうという直観である。日記の本で思い出したのだけどオモコロのマンスーンさんの本も買ったまま積んでいる。読みたい。

 

フェイクドキュメンタリー「Q」というyoutubeチャンネルがあり、2,3本の動画を見た。こわかった。基本ホラーに関しては苦手という立場であり、それはひとりで生活していることも関係していると思う。なんだかんだホラーが平気とか、よく見てる人に対して「それは同居人がいるからだろう」という気持ちはある(家族や同居人がいることがうらやましいとかではなく)。だからこういうのをみるときはコメント欄でしっかりネタバレを喰らっておくし、シークバーを動かしまくってジャンプスケアの衝撃を回避するし、めちゃくちゃ飛ばして概要を把握するのみになる。なので見たといえるかもあやしい。

 

ホラーと言っても怖さの種類は様々で、霊をはじめとする未知の存在、あるいは人間の怖い一面というサイコホラーもある。「Q」はそれらの怖さも内包しつつ、もっと別のレイヤーにある怖さも絡ませていると思った。古いテープの映像とか、乱れた映像のノイズ、似顔絵の質感などなど。これは子供が書いた絵を怖いと思うのと似ている。子供が書いた絵が恐怖の演出に使われることはたしかに多くて、でも子供の絵ってホラーの文脈がなくても単体でなんか怖いなと思う。自分だけですか? それは霊的なものでも、人間の悪でもない、全く別の居心地の悪さである。なんか太い線から漏れてるエネルギーみたいなのが関係してるのかな、それでいうとクレヨンしんちゃんのホラー回の不気味さも似ているものがある。怖い存在とは別に絵柄に怖さがあるというか。Backroomsやliminalspaceも近くて、妙に人気のない清潔な空間というのもまた怖い。こういうのを扱うのは「Q」に限らず最近のホラーの傾向かもしれないけど、よく見てないのでわからない。