nikki_20220403「二匹目の金魚/好きなツイート」

 

 この日も一日雑事をこなしていたら終わったという感じで、結局土日はいちども外に出なかった。この日記を書く前に洗濯を干したのですが、これが2日ぶりの外界との接触だったかもしれない そして進めるべき原稿みたいなものは1mmしか進まず、いまこの日記を書いたらすぐに取り組みたいところですが、食材が腐る前にカレーを作ったりしないといけない。きょうは徹夜になりそうです。

 

 

 

 

 モバイルバッテリーが届いた。いちおう数年前に買った5000mAのもの(1回充電できる)は持っているのですが、今後長めの旅行とかするとき要るし、あるいは最近地震とか各地で起こっているのもあり停電用で、何故か無性に欲しくなってしまった次第です。20000mAのものを買った。使わなくても持っているだけで安心感がある。

 

 

 

 

 panpanya「二匹目の金魚」という漫画を読んだ。安定のpanpanya節でした。

 

 春先の話が多かったというか、部屋の中というよりも外を題材にして歩き回るような話が多かった。いま読めてよかったかもしれない。でも改めて見返すと「楽園」春のweb増刊において更新された「春の導き」「真偽」の2編しか、春であることが明確な話はなかった。それでも全体的に春を感じたのはやはり舞台が外だからかもしれない

 

 印象に残ったのは「知恵」という話の「いつもの通学路が持ち物ひとつでこんなに豹変するなんて…」というくだりでした。話としては通学路の帰り道でリヤカーをひいて帰ることになったが、歩いて通れる道もリヤカーでは交通の規則的に通り抜けできなくなったりしてしまい、帰れなくなる…というものである。こうして説明するとよく分からないのだけど、読ませる良さがあるのがpanpanya作品…

 

 話は逸れたのだけど、例えば証明写真を撮りたくて街中を歩くとなかなか証明写真が見つからないことがある。そのとき、視線は「証明写真機がありそうなところ」に目を向けてしまい世界が変貌する。ちょうど1年前に同じことを言っている

 

証明写真機、というのはなかなか見つからない。意識しなければ街の景色のなかにいとも簡単に溶け込んでしまう。そして「それ」を意識し始めた途端、いつも見ている光景が宝探しのダンジョンのように思えてくるのだ。これは腕時計を忘れて街中で時計を探す感覚や、消しゴムを無くして代用品を考えて筆箱の中を漁る感覚に似ている。普段は意識しないものを意識することで、見え方が変わってくる。

日記_2021/4/11「証明写真機」|遺失物届|note

 

 僕がこのとき感じたことがpanpanyaの漫画に落とし込まれているようで、街が表情を変える感じとかも描かれていて、うれしかったです。

 

 

 

 

 かなり前に「いまの自分の趣味嗜好を形成した音楽100曲をあげて記事を書く」ということをしたい、と日記に書いたことがある。表をつくってまれにリストアップしているが、100曲というのはかなり難しいと最近気づいた。いまspotifyで僕がお気に入りにしている曲は1000曲ほどあり、それが自分の知っている曲のデータベースになる。いや、幼少期に聴いたjpopだったり合唱曲、懐メロやspotifyにないボカロもあるにはある。それを入れても1500~2000曲くらいだろうか。そこから100曲選ぶなら、15~20曲あたりで1曲を選出しないといけない。そのような頻度で人生に残る曲があるか?という話で、これは15~20曲入りのアルバムを100枚用意し、1枚につき1曲を選出する作業だといえる。そんな頻度ではあげられないかもな…と思った。50曲とかに絞ろうかしらん

 

 

 

 

 最近で好きなツイートの話をします。ごくごく個人のツイートも取り上げるのですが、もしもこの日記を見ることがあり不快に感じたらご連絡ください…

 

 

@jidousyagentuki
実家が嫌いなんじゃなくて一人暮らしが好きすぎる

 

単純にわかりすぎて気が狂うというのみです。ひとりでいるのが好きなだけ…

 

 

 

 

 

@nekodasai
 321円を払ってサラダを購入 こんなことするために生まれてきたわけじゃないのに

 

 高度に発達したネタツイやツイートは短歌と区別がつかない、と思っています。これは「サラダを買った」瞬間に「こんなことするために生まれてきたわけじゃない」と感じてしまう、その微妙な居心地の悪さを掬い取っていてよい。321円という価格のキリの悪さ・サラダにしては高い価格設定もぞわぞわするし、「321円を払って」という表現もよい。「321円でサラダを購入」でもいいのだけど、「払って購入」だと「321円」と「サラダ」を交換したということが強調されるようで、「お金を払ってサラダと交換する」という営みの可笑しさを客観視していると感じます。本当に素晴らしい。

 

 

 

 

 

@zeccaze
 あたしがずっと握ってたからまだちょっとあたたかい銃

 

 銃って冷たいイメージがあるんですが、そこに「まだちょっとあたたかい」という属性が付与されることで奇妙な感覚が生起されるようでよい。その「あたたかさ」が「あたしがずっと握ってた」ことから来ているのも、想像の余白がある

 

 

 

 

 

@ki121guti
 間違っていようかな

 

 これなんでもない呟きかもしれないんですが、とても好きだと感じてしまって何故か考えていました。「間違っている」というのは一種の状態で、「待っている」「立っている」と同じ種類の言葉である。「友達が来るまで喫茶店で待っていようかな」「私はそこで立っていようかな」みたいな用法とおなじことをこのツイートはしているわけですね

 

 しかし「間違っていようかな」という言葉には、どこか違う感覚がある。それを考えていくと「間違っている」という状態は長く続かないからなのでは、と思ったわけです 「待っている」「立っている」はずっと続くイメージがあるのだけど、「間違っている」は「正しくない」状態であり、すぐに直されるイメージがある。「この回答は間違っている」という使い方がなされるように それを「間違っていようかな」と能動的に、「間違う」という状態を継続する方向へ、踏み出している。という感覚のねじれが心地よいのではないか、というふうに思い至った次第です。

 

 ここにはおそらく「私は」という主語が省略されていて、「(私は)間違っていようかな」、何を?というのはいくらでも代入できる。「(私は道を)間違っていようかな」「(私はこの問題を)間違っていようかな」、いずれにしろ「間違う」ということを肯定する姿勢からは、そもそも「正しい」とは何かという問題も呼び起されるようで楽しい。ふとしたときに「間違っていようかな」と口にすると、なんとなく落ち着く響きがあるなという点で好きです。なんかの歌詞を引用しているだけだったら本当にごめんなさい。おやすみなさい。

 

追記:スカート「ガール」の歌詞にこうあるとのことでした…

 

 

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「二匹目の金魚」には自分が登場していたのもうれしかったです。