nikki_20221121「東直子『春原さんのリコーダー』」

 

 

歌人東直子の第一歌集が文庫になったもの。春夏秋冬、季節そのものやそれを連想させる言葉が多く用いられている歌は優しい手触りのようで、しかし言葉の取り合わせで虚を突かれたような気持ちになってしまう。

 

毒舌のおとろえ知らぬ妹のすっとんきょうな寝姿よ 楡

 

毒舌のおとろえない妹というイメージから「すっとんきょう」という語彙が飛び出してくる。そのギャップに愛らしさを感じたかと思えば、とつぜん「楡」という言葉が読み手の目の前に差し出される。最後まで読むと「すっとんきょう」という言葉が「楡」へジャンプする擬音のようにも感じられるのだけど、依然として「楡」が何を意味するのかは分からない。妹の寝姿を見ている作中の主体は外にいるのだろうか、などと想像してみるが呆然とした感覚だけが残ってしまう。

 

日常は小さな郵便局のよう誰かわたしを呼んでいるよな

 

日常は「小さな郵便局」のようだという。「誰かわたしを読んでいるよな」は倒置だと解釈した。郵便局では訪れる人が局員さんを呼ぶ。あるいは郵便局にとどまる手紙や荷物は誰かに呼ばれている、ということかもしれない。その様が日常に似ているという。私はこの歌を読んで森の中の郵便局を想像したりした。しかし後半で突然に「わたしを呼んでいる」とあることで、作中の主体がどこかへ行ってしまうような、「呼んでいるよな」で手放されたかのような不安も残る読み味でもある。

 

夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした

 

これもいきなり過去形で終わることで不安が襲ってくる感覚がある。

 

信じない 靴をそろえて待つことも靴を乱して踏み込むことも

 

最初に「信じない」と強い断定で言い切ってしまう。その目的語は「靴をそろえて待つこと」「靴を乱して踏み込むこと」だとある。「待つ」という誠実さも「踏み込む」という野蛮さも他者の行為で、それら全てを信じないと言い切る孤独がある。繰り返される「靴」というモチーフも、歩んでいくイメージと重なるようである。

 

ばくぜんとおまえが好きだ僕がまだ針葉樹林だったころから

 

するうりと頭、肩、脚、感じつつこの世にひとを産み落とすこと

 

ぼくは遠い場所から来たがあなたから離れてもっと遠くへゆくよ

 

どの歌にも静謐さが感じられる。他者との関わりを描いていてもどこか一枚隔てたところにいるような、そんな感覚がある。

 

あとがきに「小さいころ、何度も名前を呼ばれてからやっと振り返るような、ぼんやりした子供でした。」とある。氏が生きているぼんやりした膜のかかった世界に引き込まれるようだ、とも思った。

 

ちなみに氏は広島出身で私と同じであり、わりと幼いころに読んでいた地元の新聞でも名前を目にしていた記憶がある。あとこの文庫を購入したのは夏に訪れた鳥取、何もないような街のなかにあった全国の書店員の聖地こと「定有堂書店」だったのも思い出深かったりする。