日記_2022/1/9「2021年音楽振り返り 前編」

 

 1/8に帰省から戻ってきて、部屋を片付けたり簡単にレイアウトを変えたりの物理的片付けをしていた。この日は書類などしなければならない手続きをやって精神的片付けをするなど。その一環として、これまでに書いた1年分の日記をscrapboxへ全アーカイブするということをした。これは1/10までちまちまやって完遂した大仕事だったので為し終えたことが嬉しかったのだけど、ついでに昨年を振り返って整理する目的もあって意外と達成できたのである。ということで今更ですが、2021年の音楽鑑賞を振り返ります。

留意点
・今年聴いた曲であり、今年リリースされた曲とは限らない
・個人的に今後の音楽嗜好に関わってくるであろうという曲・アーティストであり、批評的に「2021年を代表する曲」ではない

 以前、spotifyの記録について書いたことはあった。しかしあれはあくまで8月くらいから導入したspotifyの分析にすぎないので…。とはいえ、振り返るデータベースがspotifyにしかないし、振り返ってみてもどこかに具体的な証拠があるわけでもない。youtubeだけで聴いていた曲もあるはずだ。2020年(これはそう考えるとキリがいいのでそう思っているだけで、実際は2021年くらい)以降から日記をつけることで自分の作品鑑賞履歴をはっきりさせていくべきだと思い始めていて、まだまだ模索中でも仕方ないかもしれない。しかしこのぼんやりとした音楽遍歴の記憶は少し後悔しているので、Twitterで共有したら自分専用ハッシュタグをつけるとかして、なにかしらで振り返りやすくしたいですね。何が言いたいかと言うと、大した記録のない中でも印象に残っているという点でかなりこれは鮮烈だった曲群ということです。

 以下、10に分けて紹介します。

 

 

1 ツミキ SACCAC CRAFT

 これは曲ではなくアルバム名である。2月頃に発売されたボカロPであるツミキ氏の初フルアルバムですね。ツミキさんは好きです。そして曲調も流行りを押さえていて、というか逆でツミキさんが流行りを作っている面もある。下位互換コピーみたいなのを中高生の方々が出しまくっている流れは痛さみたいなものがあり、完全に個人の好みとして苦手な節があったのですが、このような曲調を真似ることで作曲の敷居が下がるみたいな動きはよかったのではと思っています。

 ともあれまあこれみんな好きだろうな…という要素てんこ盛りで、これを「好き」と言ってしまうのは「好きなんだろ?」と言われて出された料理をガツガツ食いまくるみたいな恥ずかしさがある。悔しいけど好きです(ツンデレ)。以下はじめて聴いたときのTwitterのつぶやきが分かりやすかったので載せます。本人が目にすること前提だったのでちょっと気取った文体だ

 ツミキさんのアルバム、入手して30分通しで聴きました。楽器の編成はほぼ同じで少ないにも関わらず、互いを邪魔しないように計算された楽器。それらが良い音かつ全力で暴れ散らかして殴りかかるので破壊力が高すぎる。アレンジはリリースカットピアノが多用されていて、踊りたくなります。
 そんな破壊力の高い曲たちが椎名林檎のアルバムみたいに曲間の空白時間が無いまま押し寄せてくるので、ライブに行ったみたいな、ぶっ飛んだ興奮を感じられます。以前椎名林檎について言及されていたので、たぶんリスペクトもあると思いますが…
 中身がないのに難しい言葉ばかり使う、みたいな衒学的な歌詞は少し苦手なんですけどツミキさんは難しい言葉が多くても聴いていて違和感がない。これらを両立させている感じがします。
 特に最後の「スイサイ(以下略)」は久しぶりに聴いて変拍子なのを思い出したけど、違和感なく疾走感と寂寥感に満ちている。ライブのトリのようで、半音で降りていくベースで泣きそうになりました。こんなの間違いなく人生に残る名盤でしかないです。ありがとうございます。

 個人的にはアノニマスフアンフアレが好きです。爆音で聴くとかなり良いのと、言葉遊びや曲自体のメタ的言及のトリッキーさなどが冴えている

 この文章でこれ以降はボカロを言及しない(これは嘘で、後編でしました)ので、派生して言及しておきます。2021年は可不に関する記事を書いて、それなりに反応があったりそれつながりで色々あったりして大きかったなと思っていますね…。好きなことについて語る重要性を知ったというか、当記事自体はリンクの貼りすぎで重くなっていて、内容もアップデートしてないのでまた更新したいです(そう言って先延ばしにする)。

 ボカロ曲自体は深くdigしているというわけでもなく、知っていたり有名な方の曲が出ていたら聴くという程度である。いちおうボカコレのときに数日連続で聴いた曲の感想を日記で述べたりしたのだけど、そこまでです。

 そうして聴く曲のいろいろは好きなのだけど、人生の嗜好を形成するほどではないんですね。あくまで好きなものの棚に入るものが増えたというだけで…。「好きなんだろ?」と言われて出された料理をガツガツ食いまくるみたいな恥ずかしさ、とさっき述べたのだけどそんな感じだな。好きだし口ずさんだりするし、それらが流行るのは分かるのだけど、そこまでしかいかない。いろいろ外食で食べるけど、写真に撮ったりしていない限り思い出せないみたいな。それがいまのところのボカロ曲なので、たくさん聴いたのはあるけど振り返ると印象に残ったといえば、、という感じになる。決して衰退しているとか嫌いになったとかではなく、盛り上がっていると思うし好きなんです!分かってください、、

 自分のなかで「好き」であることと「自分の嗜好を形作る」というのは異なるベクトルだなと今年の音楽を振り返って感じています。全く別ではなく、重なり合っている部分はありますが。念押しするとそれは本当にどちらが劣っているとかじゃなくて、違う感性としてあるのかもしれないということをぼんやり感じている次第です。長くなった。

 

 

2 ミカヅキBIGWAVE METROPOLIS.exe

 ミカヅキBIGWAVE氏による楽曲で、ジャンルで言うとfuture funkになるのかな?上半期くらいに人が紹介していたのを知って好きになりました。もともとkawaii future bass とかはyoutubeでなんとなく聴いていたので馴染みはあったのですが、作者単位で意識したのは初めてだったかもしれない。音声カットアップがふんだんに盛り込まれていたり、同じフレーズでリズムを変えたりしていて楽しい。ぜんぶ聴いたとかはないのですが、「El Dorado 魔法少女伝説」とかよかった(アニメの音声をサンプリングしているのでSoundCloudとかyoutubeでしか聴けない、これがspotifyだけで音楽を振り返ろうとする難点でもある)ですね。そこからアニメの音声をサンプリングしたり、曲をリミックスしたりする文化(ブートレグ)を知れたのもよかった。これが音madにも肉薄していくわけである…。

 

 

3 2÷す GIRL'∫ 綴RHYTHM

 2÷す氏による音madであり台詞イントネーション作曲。これは9月くらいに人の紹介で知ったので時系列に反するのですが、つながりとして挙げます。アニメに出てくる女の子の声を切り貼りして新しい曲として昇華している作品ですが、こういう文化は結局上に述べたものとつながっていくわけで。そこからというわけでもないけど、今年は音madを自作してみたりで、そこを漁るような動きも顕著だったかもなと思います。これも台詞イントネーション作曲のように音楽ジャンルとしてとらえるなら今年の音楽ですね…。ちょうど「続・台詞イントネーション作曲合作」が出たりして熱かった。ことしも趣味の範囲でいろいろ見聞きできればと思います。台詞イントネーション作曲もやってみたいです。かなり難しいだろうけど。

 

 

4 Eat Sleep Dance  電音部,Moe Shop,犬吠埼紫杏 (CV: 長谷川玲奈) 

 ふたたびkawaii future bassあたりに戻るのだけど、Moe Shopさんも作者単位で意識したので大きかった。最初に知ったのはsoundcloudあたりだったのだけど、このEat Sleep Danceは今年出たもので「Moe Shopの新曲」ということで聴いていたら今年いちばん聴いた楽曲になっていた(spotify調べ)。リリースカットピアノやチップチューン、音声カットアップなどてんこ盛りで好きだな~となりましたね。今年はkawaii future bassを作者を意識していくつか漁っていて、yunomi、neko hackerとか聴いてました。ただ、このジャンルは「この作者のものをまとめて聴くぞ!」となっても提供していたり、コラボしていたりなど分散しているので、漁り方としてはシャッフルに任せて聴いていくのがいいかなと思いはじめていて、どうなんだろうか。

 

 

5 スタァライト九九組 私たちはもう舞台の上

 いつものです。もう日記では言及しまくっているので深追いしません…と書くことすらも常套句になっていますが、レヴュー曲ふくめ音楽的なことを述べます。曲を聴いて作品の細部を思い出し、感傷に浸れるという経験がはじめてでした。インタビューにおいて、スタァライトのレヴュー曲などは「持ち帰れるレヴュー」であるというような言及があったように思うのだけど、まさにその通りで大成功していると感じます。これは歌劇テーマ、歌って踊って奪い合う、というアニメの性質を生かしていて、劇伴でもありキャラソン的、セリフ込みのアニメの一部もあるという…。曲調がころころ変わるので、そこをフックとして思い出せる起点がある。同じフレーズを曲調を変えて繰り返すとか、そういうのも好きなのでツボでしたね。音楽体験として新鮮でした。ふつうのアニメの劇中歌ってあまり歌詞を聴かせる感じではないと感じていて、そことは異なるように思います。この私たちはもう舞台の上、はレヴュー曲ではないものの、中村彼方さんの歌詞の落とし込み方がうますぎる。100回以上聴いていると思うけど、聴くたびに泣きそうです

 

 ここまでで4000字になり長くなりそうなので、後編へ回します。前編はボカロやアニメ文化中心になったので後半は邦楽中心になると思いますが、どうでしょうか。おやすみなさい。

 

日記_2022/1/8「トレンドは連想ゲーム」

 

 この日は帰省先から自宅へと帰っていた。特に問題なく帰ることができた、と言いたいところだが途中で切符を失くすというトラブルがあった。新幹線とかではないローカル線での出来事なのでまあそこまで悲観することもなかったのだが、朝早くの移動だったりで頭がぼーっとしていたのかなと思う。ちなみに駅員さんに申告して、次から気を付けるようにとお金の払い直しは免除された。

 乗る直前のホームで切符がないなと気づいたのだった。とりあえず列車に座り、探したけどなくて「ホームに落としたな」と思ったのだけど、「まあなんとかなるか」と動き出すまでわりと時間があるのにぼーっとしていて、結局降りてからも見つからなかったのだった。いちおういつも切符は決まったポケットに入れてスマホのカバーに挟むようにしているのだけど、ホームでスマホを取り出したりしたときに落としたのかな…。いちいちスマホを見る癖を辞めるべきなんだろう。こういうことは切符に限らず多くて、起きて予定の5分前だけど「なんとかなるだろう」と二度寝するみたいな、そういうの危機意識の欠如がわりと多い。これは生まれつきというか、ここ数年で実感するようになったので退化したのかな、などと勝手に思っている。

 帰省についてはまあそこそこで、結局自宅でひとり過ごすのも実家で家族といるのもどちらもいいところ、悪いところあるよねという感じだった。かつては祖父母宅に行ったり、帰省ってわくわくするものだった気がしていたけど、いまはそうでもなくなっていくことに対するぼんやりとした悲しみみたいなものがある。仲が悪いとかでは決してないが、家族との距離感の変化みたいなのがあるのだろうな、と静かに考えているところがある。

 

 年末年始はトレースではあるものの、手書きでアニメを書くことを主にしていた。やってみて気づいたことは多々あるが、ひとつは「人間は二つの動きの中間を脳内で勝手に補完してしまう」ことである。少ない枚数でも意外と滑らかな動きに見えてしまうものだ。

 これと同じようなこと言ってる人を前も見た気がするが、人はふたつのものを並べられるとつながり、あるいは物語をどうしても見出してしまう。前も考察について述べたけど、だから考察を避けるとか消すことは不可能なんだろう。考察されたくない、と思ってもされてしまう。

 かつて全てあなたの所為です。さんが発表した曲において、改行された歌詞を縦読みすると「けっしてかいどくするな」という文字列が浮かび上がる仕掛けがあった。これが何を意味するのか(考察を嫌っているという意思表明か、または何か禁忌的な演出なのか)は知らないが、前者の意味であった場合はわりとパラドキシカルな仕掛けである。考察しないと「考察するな」という仕掛けは読み取れない。

 少し話は変わるが、Twitterもそんな感じである。何の脈絡も無しに呟こうとしていることが意図せずして他人のツイートに反応したみたいになるからやめるか…みたいなのがある。同じように、ツイートとツイートはあるものを媒介にして共通項が見いだされ、それが連なって「トレンド」が出来上がっていく。そうして組みあがったトレンドはもはやその語から思いつく連想ゲームみたいな感じになっている(なので非表示にしている)。

 Twitterはあまりに多くの情報が散らばっているので、この「媒介」の要素がたくさんある。そのどれもに抵触せずにツイートすることが難しい。それで相互作用的にいろんなことが喚起されていくという点にもどかしさも面白さもあったりする。こういうTwitterについて考えたエッセイ集みたいなのって誰かが同人誌で出していたりしないのだろうか。読みたさがある。にゃるらさんと岩倉文也さんの「インターネット2」はまだ読めてないけど、どちらかといえばインターネット寄りだと思う。おやすみなさい。

 

日記_2022/1/7「萌えの奔流」

 

 この日は翌日に実家から引き上げるということもあり準備をしたり、最後にもう一度中心部の街を見に行ったりしていた。久しぶりに地元のアニメイトに行った。ここ数か月でアニメイト自体ふらっと訪れたことはあったのだけど、ちゃんと見たのは久しぶりかもしれない。メロンブックスにも行ったり、そのアダルトコーナーに行ったりしていた。とらのあなのアダルトコーナーは行ったことあったのだけど、メロンブックスは初めてだったな。

 萌えの奔流に呑み込まれる体験としてのアニメイトがある。キャラクターはほとんど知らなくても、どこを見てもアニメキャラクターの極彩色、異常に高い声や低い声が飛び交っている場所からしか得られない栄養素がある。これは裏返せば、あまりの過剰さゆえ苦手な人は苦手なんだろうなと思う。いわば人々の好きという感情を全身全霊で受け止める場所であり、そういう良さがあると感じた。メロンブックスのアダルトコーナーとかかなりよかった。どこを見ても肌色しかないし、そこにひとつの肉塊というか生命体みたいなものを感じる。匂いすら漂ってきそうな生々しさがあったな。僕が訪れたアニメイトはそういう過剰さが際立つところだった。さいきん訪れたところはそうでもなかったので、店の規模によるのだろう。

 僕はどちらかといえばグッズなどに対する興味がなく、本に興味があるため5万円くらい握り締めてメロンブックスで青年未成年問わず大量購入したいなという衝動にかられた。すぐにいっぱいになると思う。以前だれかが「お店でみかけても買わないような本も、コミケだとたくさん買ってしまう」みたいに言っていたのだけど、それが本当ならコミケも行ってみたいしかなり散財すると思う。実際文学フリマで似た経験をしたので、そうなのかもしれない。おやすみなさい。

 

日記_2022/1/6「図書館で目にした本」

 

 きのうと同じく10時くらいに起き、だらだらしてからまた15時くらいに図書館へ行き、帰って夕食を食べたりしたら今になった。手書きのmadを作ろうとしているのだけど、飽きてきたというか、まだまだ続く作業の膨大さに気が遠くなってきている。その他よく分からないけど不安みたいなものに襲われていて、すっきりしない感じではある。いまは実家で8日に帰るので、環境が変わる不安か、それともまたひとりになれることへの安堵、それに対する罪悪感なのかもしれない、などと自意識がぐるぐるしている。

 図書館は調べ物目的で行ってきた。これは自分にしては偉いと褒めたい。まあ家から近いという要因もあるのですが。とはいえ趣味で本を立ち読みすることも滞在時間の3分の1くらいしてしまった。哲学の棚を見ていると入不二基義「現実性の問題」があったので、まえがきだけ読んでみた。特に込み入った興味があるわけではないが、名前が変わっているので覚えていたのである。まえがきには「子供のころクラスメイトが転校して会えなくなるという出来事と親戚が亡くなるという出来事があったのだけど、そのふたつ、死別と離別の違いが分からなかった」という話から始まり、それについて考察していくとこの本の通底するテーマに繋がっている、ということが書かれていた。面白かった。そのような些細な疑問というか感覚だって哲学につながるので、こうして日記でそういう感じの気づきを綴っておくことは意味のある営みなのかもしれない、と思えた。中身は難しそうだったが、いつか読んでみたい。

 以前から名前だけ聴いて気になっていた二階堂奥歯「八本足の蝶」も少しだけ目を通した。明日は帰省の最後に街の中心部に再び行こうと思っていて、本屋にあったら買おう、と考えた。若くして自殺した女性編集者のweb日記が本になったものなのだけど、闘病記などではない独特の言語感覚や趣味のようなものが日々の短い文章を通して描かれている。ぱらぱらと部分部分を読んだだけでまず思ったのは、他人の日記を読むということの面白さだった。もちろん、ホームページで更新されていたらしいので他者に向けて書かれているという意識はあったのかもしれない。しかし文章はわりとそれを意識していない、個人的なメモのようなものだと感じた。そこに感じる背徳感みたいなものがあった。これはnoteなどで更新されているものとは明らかに異なる。書き手の層の違いもあるかもしれない。あと、終盤になるにつれて希死念慮などが目立ってきていて怖さもあった。そのようなものを本にしてしまうということの不謹慎さというか、消費しているようなことに嫌悪感を覚えたのだけど、この日記がどういう価値の元に書籍化されたのか、読んで確かめてみたくなった次第だった。あと、先述したように日記を書く意義みたいなものも、少し分かったような気がした。おやすみなさい。

 

日記_2022/1/5「ラムネ味試論」

 

 10時くらいに起きて、だらだら朝食をとるなどした。ひっきりなしに昼食を食べ(実家なので家族の食事に合わせる形になる)、事務的に確認する必要のあることがあったのでやっていると15時になり、図書館へ行ったりしていたら22時になった。家に居てもすることはじわじわと増えたりする。成人式や同窓会が延期になるという話が入ってきたりもした。先行きが分からない世の中だと思うばかりである。

 

 図書館は小学生からずっと言っている思い入れの深いところだが、本当に子供のころから変わらず窓口で対応している司書の方がいたりしてよかった。本棚の位置も大きく変わっていないし、10年くらい同じ本が置いてあったりする。しかし表に出ていないだけで、書庫にある本はアップデートされているのだろう。いくつか本を検索するとそれは分かる。しかし書庫を実際に見てみないと分からないし、司書さんはこれだけ訪れている僕を認知しているのかは分からないので、そういうもどかしさがある。

 ちなみに一度だけ書庫の見学をさせてもらったことがある。希望するとツアーをしてくれるというもので、完全に一対一で中学の頃の自分のためだけに案内してくれた。最後は「自由に書庫内を見て回って気に入った本は持ち出して借りてよいですよ」と言ってくれるものだった。大学の図書館などでは書庫に入ることが多くなるので書庫の貴重性は薄れたけど、未だにあのときの特別感とか、機械的な司書さんが人間味を見せたようなことをなんとなく覚えている。

 

 ふいに「カップ焼きそば現象」なるものを思い出す機会があった。

ようするに「オリジナルの模倣品・代替品等が、最早それにとどまらずオリジナルとは別の魅力・需要を持ちうること」をこう呼ぶようだが、原作でも途中で話がすり替わっている感があり、明確な定義は無い

 

 高校のとき「お菓子におけるラムネ味は実際のラムネとは乖離している。ラムネの味ってよく分からないのに、もはや一種のオリジナルの味として定着している」という話を自分が友人にしたか、あるいはされたのか覚えていないが、とにかくそういうことを考えていたことがあった。ソシュールにおける言語の恣意性の評論が授業で出たので、そこと絡めた話題だったかもしれない。これもカップ焼きそば現象だと思っている。

 ラムネ味、あるいはソーダ味というのは不思議なものだと思う。ややこしいので整理して述べてみたい。僕はラムネ味とソーダ味は同一のものであると考えている。これは世の中にある「ラムネ味」「ソーダ味」の食べ物がだいたい同じ味であると感じていることに由来する。

 まずラムネ味から考える。ラムネという飲料があり、それを冠したのがラムネ味ということになる。しかし、それは実物の味とは異なる。そもそもラムネの味とは何だろうか。僕は微妙にあまい炭酸水、三ツ矢サイダーがほぼラムネであると認識している(ここまで書いて「サイダー味」の存在も思い出したので、ますますややこしくなった)。調べると、ラムネとサイダーは同じ飲料のことらしい。ただ、あの瓶に入っているかの違いだという。

 そして、ラムネ(サイダー)はあまい炭酸水なので、それを他の食べ物で「味」として再現しようとすると「炭酸」のシュワシュワ要素を排除して「甘い」という要素だけを残す必要が出てくる。これでは元のラムネ(サイダー)と味が乖離するのもわけないという話になる。そしてさらに「ラムネ」という小さな粒状のお菓子がある。これは二日酔いに効くなどと話題になったことがあるように、ブドウ糖の塊でありひたすらに甘い。このお菓子の印象もあいまって、ますます乖離していくのだと思っている。これが僕がずっと考えているラムネ味、サイダー味の正体である。

 ではソーダ味は何かを考えると、ソーダとは炭酸水のことだと認識している。調べるとそれであっているらしい。つまり甘味はないのである。ソーダとラムネが別のものとして言葉になっている以上明確な違いがあるはずで、それは甘味の有無による。ならばソーダ味が甘いのはおかしい話で、さらにそれがラムネ味、サイダー味と同列になっているのである。これはますますおかしいのだけど、まあ混同するのもやむを得ないような気がしている。

 どちらにしろ、これから夏に近づいてくると「ラムネ」「サイダー」「ソーダ」を冠したものは出てくるだろうし、ひたすら甘かったり一抹の爽やかさがあるのだと思う。この話を考えているような先駆者は調べるとブログなどに大量にいた。しかし、ずっと前から考えていたことを小さなきっかけで自分の言葉を用いて整理できたのでよかった。おやすみなさい。

 

日記_2022/1/4「企業秘密」

 

 きょうはほぼ午後くらいから夕方まで地元の街をひとりで散策してきた。ほぼ変わっておらず、そして自分の足も迷うことなく、よく通っていたルートで複数のお店を巡回したので、その癖というか土地勘は消えていなかったという謎の感動のようなものがあった。3が日は終わったので、少しずつ戻さないといけないのだろう、という気もしてきている。

 

 広島なのでお好み焼きを食べた。この直前に二郎系ラーメンのお店に入ったのだけど「注文は終了しております」と言われて退散した。表には「準備中」とあったのだけど、ラストオーダーの時間まで余裕があったし、店内にも客が行ったので入ってみたら駄目だった始末で、恥ずかしかった。お好み焼き屋では、せわしなく鉄板で焼かれるそれを前に、新規感染者数の話をしていて、これだよ、、という人情というか味わいがあってよかった。お好み焼き自体も久しぶりに食べたので美味しかった。魚介に豚肉といろいろ入っていてカオスだけど、まとまったおいしさがあり、一番好きな食べ物だと思う。広島風には中華そばと大量のキャベツにもやしがあるので、実質二郎系ラーメンなのかもしれない。

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 マシュマロを頂いていました。ありがとうございます。実はまだ見れていないというか、小林賢太郎氏の公演はフルで見たいという気持ちがあるので帰省の帰りの電車で見て、感想を書く予定です。しかしあまりにも頂いてから時間が経ちすぎているので、ここでご報告させてもらいます。

 

 かつて小学生くらいのときに通っていた塾の先生が「友人に漢方の薬剤師がいるのだけど、腹痛が辛いと相談したのに『仕事なのでただで薬は調合できない』と言われて断られた」という話をしてくれたことを覚えている。漢方の薬をどう調合すればよいか、という知識が仕事なのでただでは教えられないということだ。しかし例えば大工をしている人間が、家の棚が壊れたのを修理するのに「工具の扱い方の知識が仕事なのでただでは修理できない」とは言わないはずで、奇妙なものを感じる。いや、料理人が他人に秘伝のタレの作り方を教えないのと同じようなものかもしれない。大工が工具を扱うノウハウは一般に共有されているが、漢方の調合や秘伝のタレのレシピは共有されていなくて、それが価値を持って儲ける源になっている。漢方の調合ってそういう意味で謎めていて、そこが面白いと子供心ながらに感じたのかもしれない。ゆえにあまり信用していないところがあるけど、効くには効くらしいのでよくわからない。いざとなったら頼るかもしれない。

 

 そして、歌手だったり、あるいは文筆家、小林賢太郎氏もnoteで購読すると読める文章を書いているわけで、日常的に発する声、書く文章、というものが価値を持つ人というのは面白いと思っている。Vtuber間の内輪の話で「誰々とカラオケにいったけどあの声がよかった~」みたいな話を聴くことがあるが、声や文章が売り物だからと言って完璧にセーブするわけではなくて、企業秘密ほどハードルは高くなくて、親しい人にはそれを気軽に見せることが出来るのだろう。もちろん身バレを防ぐために声色を変えるとか、文体を変えるような努力はあるのかもしれない。というか仮に抑えていても「その人がプライベートで書いた文章」という価値を持ってしまうわけで、企業秘密とはまた違った公私の違いがあるのだな、という点に興味深さを感じたりしている。おやすみなさい。

 

日記_2022/1/3「満腹の質/漫画」

 

 きのうの日記がかなり事務的なものになってしまったので出来事を書いていなかった。まず元日の日記のタイトルを「生活」にしたのだけど、あまりにも中身と関連がない感じになってしまった。特につけるタイトルが思いつかなくて何となく「生活のこと書いてるし、1年間生活のことを書くわけだからいいか」と考えてつけたのだけど、妙な感じはする。

 

 そしてきのう1/2は祖父母宅に新年の挨拶とそこでの食事をしてきた。焼き肉をしてくれた。帰省をするとお腹いっぱいになることが多く、しかもそれは「質のいい腹の満たし方」であると感じている。ひとりでごはんを食べていると、白米を大量に食べるとか、カップラーメンでお腹が膨らむとか、そういういたずらな、中身を伴わないような「お腹いっぱい」を感じることはある。しかしこうして感じるのは色んな種類の食材を摂取した「お腹いっぱい」であり、そのほうが身体的・精神的にも充実しているように心なしか感じていた。のだけど、夕方に普通に胃もたれしてしまったのだった。昔から肉などの油に弱いような気がしている。

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 そして今日は外出しようとしたけど起きるのが遅かったので断念し、大してすることもなく趣味の作業をしたり、本を読んだりしていた。ただ、実家でしかできないことをするべき、と考えたので妹が全巻そろえていた鬼滅の刃を読んでみることにした。もともと少年漫画を通ってこなかったし、食わず嫌いしている節があるのでちゃんと読む必要があるのと感じたのだ。いま2巻まで読んだのだけど、展開がとにかく速いのとアクションシーンで何が起こっているのか、人物がどう動いているのかよく分からない。これは漫画が下手くそだとかそういうものではなく、動きがコマで切り取られて間の動きが省略されている、という漫画特有の形式に自分が慣れていないためだと思われる。やはり丁寧な描写で生活を描いたり、可愛さに萌えるようなもののほうが好きなのかもしれないと思うが、妹曰く12巻くらいから面白くなるらしいので耐えて読んでみたい。

 

 小学校くらいの頃は「漫画ばっかり読んで…」みたいな言葉をよくフィクションなどで見聞きしたせいか漫画を読む時間=無駄な時間というような認識がかつての自分にも、一般にもあるような気がしていた。しかし今になると僕はドラえもんしか漫画を読んでこず、周りにはワンピースなどの少年漫画を普通に通ってきているような人がたくさんいる。だからこれまでの人生でたくさん漫画を読んでいる人はすごいと思うし、漫画を読む時間=立派な作品鑑賞の時間、というように認識が自分のなかで改まった。

 

 そしていまの子供は漫画よりもゲームなどのほうが主流になっているようで、そういう意味でも世間的に「漫画を読むこと」は作品を鑑賞するものとして、小説を読むのと同じ立派な価値を昔よりも持つようになったのではと思う。そもそも僕はゲームもしないので、ゲームするのもすごいと感じる。

 

 ちなみに「漫画ばっかり読んで、、」というやりとりをフィクションで見聞きしたのは、僕が主に「ドラえもん」しか漫画を読んでいなかったことの影響が大きそうである。のび太はそういう叱られ方をよくしている。ゆえにドラえもんの名言集とか、大事な本のひとつではある。おやすみなさい。