日記_2022/1/6「図書館で目にした本」

 

 きのうと同じく10時くらいに起き、だらだらしてからまた15時くらいに図書館へ行き、帰って夕食を食べたりしたら今になった。手書きのmadを作ろうとしているのだけど、飽きてきたというか、まだまだ続く作業の膨大さに気が遠くなってきている。その他よく分からないけど不安みたいなものに襲われていて、すっきりしない感じではある。いまは実家で8日に帰るので、環境が変わる不安か、それともまたひとりになれることへの安堵、それに対する罪悪感なのかもしれない、などと自意識がぐるぐるしている。

 図書館は調べ物目的で行ってきた。これは自分にしては偉いと褒めたい。まあ家から近いという要因もあるのですが。とはいえ趣味で本を立ち読みすることも滞在時間の3分の1くらいしてしまった。哲学の棚を見ていると入不二基義「現実性の問題」があったので、まえがきだけ読んでみた。特に込み入った興味があるわけではないが、名前が変わっているので覚えていたのである。まえがきには「子供のころクラスメイトが転校して会えなくなるという出来事と親戚が亡くなるという出来事があったのだけど、そのふたつ、死別と離別の違いが分からなかった」という話から始まり、それについて考察していくとこの本の通底するテーマに繋がっている、ということが書かれていた。面白かった。そのような些細な疑問というか感覚だって哲学につながるので、こうして日記でそういう感じの気づきを綴っておくことは意味のある営みなのかもしれない、と思えた。中身は難しそうだったが、いつか読んでみたい。

 以前から名前だけ聴いて気になっていた二階堂奥歯「八本足の蝶」も少しだけ目を通した。明日は帰省の最後に街の中心部に再び行こうと思っていて、本屋にあったら買おう、と考えた。若くして自殺した女性編集者のweb日記が本になったものなのだけど、闘病記などではない独特の言語感覚や趣味のようなものが日々の短い文章を通して描かれている。ぱらぱらと部分部分を読んだだけでまず思ったのは、他人の日記を読むということの面白さだった。もちろん、ホームページで更新されていたらしいので他者に向けて書かれているという意識はあったのかもしれない。しかし文章はわりとそれを意識していない、個人的なメモのようなものだと感じた。そこに感じる背徳感みたいなものがあった。これはnoteなどで更新されているものとは明らかに異なる。書き手の層の違いもあるかもしれない。あと、終盤になるにつれて希死念慮などが目立ってきていて怖さもあった。そのようなものを本にしてしまうということの不謹慎さというか、消費しているようなことに嫌悪感を覚えたのだけど、この日記がどういう価値の元に書籍化されたのか、読んで確かめてみたくなった次第だった。あと、先述したように日記を書く意義みたいなものも、少し分かったような気がした。おやすみなさい。