日記_2022/1/5「ラムネ味試論」

 

 10時くらいに起きて、だらだら朝食をとるなどした。ひっきりなしに昼食を食べ(実家なので家族の食事に合わせる形になる)、事務的に確認する必要のあることがあったのでやっていると15時になり、図書館へ行ったりしていたら22時になった。家に居てもすることはじわじわと増えたりする。成人式や同窓会が延期になるという話が入ってきたりもした。先行きが分からない世の中だと思うばかりである。

 

 図書館は小学生からずっと言っている思い入れの深いところだが、本当に子供のころから変わらず窓口で対応している司書の方がいたりしてよかった。本棚の位置も大きく変わっていないし、10年くらい同じ本が置いてあったりする。しかし表に出ていないだけで、書庫にある本はアップデートされているのだろう。いくつか本を検索するとそれは分かる。しかし書庫を実際に見てみないと分からないし、司書さんはこれだけ訪れている僕を認知しているのかは分からないので、そういうもどかしさがある。

 ちなみに一度だけ書庫の見学をさせてもらったことがある。希望するとツアーをしてくれるというもので、完全に一対一で中学の頃の自分のためだけに案内してくれた。最後は「自由に書庫内を見て回って気に入った本は持ち出して借りてよいですよ」と言ってくれるものだった。大学の図書館などでは書庫に入ることが多くなるので書庫の貴重性は薄れたけど、未だにあのときの特別感とか、機械的な司書さんが人間味を見せたようなことをなんとなく覚えている。

 

 ふいに「カップ焼きそば現象」なるものを思い出す機会があった。

ようするに「オリジナルの模倣品・代替品等が、最早それにとどまらずオリジナルとは別の魅力・需要を持ちうること」をこう呼ぶようだが、原作でも途中で話がすり替わっている感があり、明確な定義は無い

 

 高校のとき「お菓子におけるラムネ味は実際のラムネとは乖離している。ラムネの味ってよく分からないのに、もはや一種のオリジナルの味として定着している」という話を自分が友人にしたか、あるいはされたのか覚えていないが、とにかくそういうことを考えていたことがあった。ソシュールにおける言語の恣意性の評論が授業で出たので、そこと絡めた話題だったかもしれない。これもカップ焼きそば現象だと思っている。

 ラムネ味、あるいはソーダ味というのは不思議なものだと思う。ややこしいので整理して述べてみたい。僕はラムネ味とソーダ味は同一のものであると考えている。これは世の中にある「ラムネ味」「ソーダ味」の食べ物がだいたい同じ味であると感じていることに由来する。

 まずラムネ味から考える。ラムネという飲料があり、それを冠したのがラムネ味ということになる。しかし、それは実物の味とは異なる。そもそもラムネの味とは何だろうか。僕は微妙にあまい炭酸水、三ツ矢サイダーがほぼラムネであると認識している(ここまで書いて「サイダー味」の存在も思い出したので、ますますややこしくなった)。調べると、ラムネとサイダーは同じ飲料のことらしい。ただ、あの瓶に入っているかの違いだという。

 そして、ラムネ(サイダー)はあまい炭酸水なので、それを他の食べ物で「味」として再現しようとすると「炭酸」のシュワシュワ要素を排除して「甘い」という要素だけを残す必要が出てくる。これでは元のラムネ(サイダー)と味が乖離するのもわけないという話になる。そしてさらに「ラムネ」という小さな粒状のお菓子がある。これは二日酔いに効くなどと話題になったことがあるように、ブドウ糖の塊でありひたすらに甘い。このお菓子の印象もあいまって、ますます乖離していくのだと思っている。これが僕がずっと考えているラムネ味、サイダー味の正体である。

 ではソーダ味は何かを考えると、ソーダとは炭酸水のことだと認識している。調べるとそれであっているらしい。つまり甘味はないのである。ソーダとラムネが別のものとして言葉になっている以上明確な違いがあるはずで、それは甘味の有無による。ならばソーダ味が甘いのはおかしい話で、さらにそれがラムネ味、サイダー味と同列になっているのである。これはますますおかしいのだけど、まあ混同するのもやむを得ないような気がしている。

 どちらにしろ、これから夏に近づいてくると「ラムネ」「サイダー」「ソーダ」を冠したものは出てくるだろうし、ひたすら甘かったり一抹の爽やかさがあるのだと思う。この話を考えているような先駆者は調べるとブログなどに大量にいた。しかし、ずっと前から考えていたことを小さなきっかけで自分の言葉を用いて整理できたのでよかった。おやすみなさい。