nikki_20220415「水の味」


 全部予定を飛ばして寝て、夕方に起きた。3人くらいで会食する予定があったので赴いた。予定があるので遅刻します、と言っていたのにその予定を飛ばしておりそのうえで少し遅れたりしていた。リーズナブルな値段でディナーの雰囲気を楽しめるレストランみたいなところだった。テーブルマナーみたいなものを知ることができて、しかしそれにシュールさを感じたりして興味深かったです。帰りに食材の買い出しをしたところ同行してくださり、食材を買うのを人に監視されるという面白い体験ができました。

 

 

 

 

 お酒は1L近く飲めるのに水は無理なのはなぜだろう、とを呟いている人を見かけた。僕はお酒をそこまで飲まないのでその感覚は分からないのだが、興味深い問いかもしれないと思った。呟いている人はアルコール中毒などではないし、ここにおけるお酒はほかの清涼飲料水に置き換えてもいけるだろう。この問いに対する答えは水は味が無く、おいしくないからというものが一番に思い浮かんだ。ここから水の味について考えた。

 

 本当に水はおいしくないのだろうか。そして味が無いのだろうか。まず味から考えると、少なくとも私は水に味が無いと感じている。それは「これが水の味である」という確固たる感覚を味わったことがないからだ。そして、だいたい直前に口で含んでいたものの味がしたりする。たとえばクッキーを食べて口がぱさぱさしているときに水を飲むと、ほんのり水は甘く感じられるだろう。それは水の味とはいえない。「私がそれを知覚しない」ということは「そのものが存在しない」ということにはならない。私が間違っているかもしれないからだ。クッキーを食べて水が甘く感じられたとして、実はその甘さはクッキーに由来していない可能性もある。知覚の疑わしさみたいなものが水の味を考えると分かる。

 

 そして「水はおいしいのか」という問いだが、これはおいしいという主観的な価値判断に依拠するものである。なので確固たる答えはないものの「六甲のおいしい水」のような商品は存在している。おそらく水におけるおいしさ=純度?が高い、ということになるのだろう。しかし私たちはそのような純度をたぶん理解していない*1。にも関わらず「水がうまい」と言うときがある。それはどのようなときかというと、運動した後など身体が水分を欲しているときである。このときの「おいしい」は「身体が求めるものが来た」という喜びの意を含んでいると推測できる。そしてそれは「六甲のおいしい水」の「おいしい」とは異なる。

 

 これは料理でも適用できるだろう。すなわち「おいしい」という感覚には「素材そのものの味」と「身体が食事を受け入れるモチベーション」というふたつの評価軸が内在しているという可能性である。そしてミシュランガイドなどは前者が評価軸になっているのだろうし、私たちが日常的に使う「おいしい」はふたつが混在しているのかもしれない。おやすみなさい。

 

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*1:本当に良いとされる水を飲んだら、私でもそれまでの価値観が覆って水道水が飲めなくなるみたいなことがあるのだろうか。気になるけど、神話みたいな話だなとも思う。