nikki_20221216「永井均『存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)』」

 

 

この16日は半年くらいやっていた永井均存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)」の読書会が終わった。哲学系の読書会というものは参加したことがなかったので新鮮な体験であった。肝心の本の感想についてはそういうことについて人とあれこれ話して探っていったり、分かりやすい語彙で書いてあるのに何を言っているのか全く分からない文章を解きほぐしていく、という使ったことのない頭の使い方ができてよかったです、くらいで全く含蓄のあることは言えないけれど、思ったことを書く。

 

小学校の頃からぼんやり考えていたこととして「どんな問題も突き詰めると『それがそれであるしかない』という結論にたどり着くのではないか」というものがあった。理系については無知なので突っ込みが入ることを容赦の上で言うと、どんな数学の難題もつきつめると結局「なぜ1+1=2なのか」というような問いになって、「1+1=2でしかないから」としか答えられないのではないか。これは小学校のころの私が頻繁にそういう「そうでしかないから」としか答えられない法則に対する疑問を周囲にぶつけ、「納得するしかないんだよ」と諭されていた思い出があるゆえ印象に残っているというのもある。「かけ算はなぜかける数とかけられる数を逆にしても答えが同じになるのか」などがずっと分からなかったし、いまも分からない。これは算数に限らなくて、「何が良いか悪いか」も「『よさ』がただ存在しているから」という問いようのない境地にたどり着くのではないかみたいなことをひとりで帰りながら考えていたと思う。

 

>p158 たとえば「諸々の物理定数はなぜこの値なのか」という問いの場合、他の可能性は他の値という形ですでに与えられている。もちろん物理学者はどこまでも、その値であることの理由をより基本的な法則から説明しようとするであろうが、その探究も必ずどこかで終わり、「なぜか事実こうなっている」と言わざるをえないところに行き着く。「こうなっている」と捉えることができるかぎり、そうなっていないことは「可能」である。それが哲学の「タウマゼイン語法」である。

 

話は逸れたが、永井均存在と時間 ――哲学探究1 (哲学探究 1)」でも結論はそれに近い場所にたどり着く。内容としては〈私〉というものの在り方、それをさらに〈今〉に適用してその在りようを探っていくというものである。しかし問うほどに輪郭のない「それ」がただ存在しているということが分かるようで分からなくなっていく。この一節で、自分がずっと考えていたことを哲学ではこう扱うんだなと解ってよかった。