nikki_20220118「見られている意識」

 

 この1週間(1.17~)は本当に腐りきっていて、何か悪いことがあったとかではないのだけど完全に昼夜逆転している。いまも20日の15時くらいに目覚め、布団から出たのは18時、ごはんを食べるなどした。それからこうしていま数日分の日記を書いている。

 

 この日も結局は正午くらいに起きた。その時点で予定を飛ばしていたし、本当は外出して授業を受けなければならなかったけどその気になれなくて家にいた。そもそも対面でやっていいの?な状況だと感じているので結果としてボイコットみたいになった。

 

 

 

 17と18日は夜にリハビリ的な作曲をした。試みにyoutubeで作る様子を配信しながらやってみたところ、何人か見てくださったようでありがたかった。登録して下さっている方は100人ほどいるわけだが、深夜にひっそりこういうのをやると見ず知らずの人がコメントしてくれたりする。その場限りのゆるい関係性みたいなものがあるのでよい。

 

 ただ日記にしろTwitterにしても人格を出し過ぎたくないというか、思念体みたいなものでありたいと思うので声とか出してぼそぼそ配信するのはなんか違う気もしている。人と交流したくないという意味ではなく、個を出し過ぎたくないというかなんというか

 

 作ったものは以下

 

youtu.be

 

 


 しかしカラオケだったり、ギターを弾いてみたり、そういうことを配信して「不特定の誰かが見聞きしている」みたいな状況には、なぜか安心を覚える節がある。これがスペースなどで誰が聴いているか把握出来たら、なんか違うなという気持ちだ(スペースをしたことはないけど)。この謎の安心はなんだろうか、気恥ずかしさよりも安心というか微弱な快感がある。

 

 これってTwitterでよく呟く理由にも似ているのかもしれない。誰に向かうでもない(実際はフォローしている人が見ているけど)言葉を投げてみて、場合によってはいいねがもらえる。もしもTwitterにおいていいね・リプライ・リツイートなどの反応する手段が一切消滅したとして、自分はTwitterを続けるだろうかという思考実験みたいなものをしてみる。たぶんするのかもしれない。ただやはり反応がないことの飢えは感じると思う。ではいまのTwitterのまま、フォロワー0の鍵垢で呟けるかと言われたらたぶんしない。やはり見られていることの適度な意識がなにかしらあるんだろう…。

 

 おやすみなさい。