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だんだんと日記に書くことがなくなってきたかもしれない。毎日なんらかのアニメを見たりしていればわりとネタには困らないのかもしれないが、そういうのもない。本がそれにあたるのかもしれないが、まとめて書きたいという邪な意思によりできていない。「まとめて書きたい」というのは、たくさん書名が並んでいると沢山読んでいる感じが出て承認欲求が満たされるからだ。結局そういう卑俗な理由なのだし、そんなこだわりを捨てないと毎日は書けないのかもしれない。ということで今日はここ数か月で読んだ本を紹介する。さらにちらほら読んだ本を小出しに日記に書くことで、もう「読書日記」とかまとめて書くのもやめます。たぶん。
- 小島なお『サリンジャーは死んでしまった』
- つくみず『シメジシミュレーション』
- 高瀬 隼子『おいしいごはんが食べられますように』
- 年森瑛『N/A』
- 稀見理都『エロマンガ表現史』
- 小笠原鳥類『小笠原鳥類詩集』
- 荻原朔太郎『荻原朔太郎詩集』
小島なお『サリンジャーは死んでしまった』
読みたいと思っていたが、たぶんもう絶版していた歌集。図書館にあったので読んだ。作者もあとがきで述べているとおり「サリンジャーは死んでしまった」というのは青春時代の終わりを指している。表題歌で歌集ははじまるし、青春の終わり、恋の終わりを詠った連作もある。
第一歌集「乱反射」も読みたいと思いつつ読めてなくて、しかしアンソロジーなどで見かけた第一歌集のいくつかの歌から受けていた印象とは異なっていた。それも当然で、この歌集は大学から社会人になるころの歌をあつめたものらしい。第一歌集はたしか高校生のころの作品群である。より大人になった視点や、人生の機微が綴られていていい。
「今日の昼昨日の夜に食べたもの思い出せない祖父の夕暮れ」からはじまる連作「夕暮れ」には「父からのメールの口調が不器用で変だと笑う母の夕暮れ」などの家族の光景が切り取られている。家族のこういう光景って普遍的だな、いつの歌集だろうと思っていたら「2011年3月」という震災を詠んだ歌が出てきたりしたので驚いた。
春風のなかの鳩らが呟けりサリンジャーは死んでしまった
青春と呼ばれる日々はいつのまにか終わってしまい川沿いをゆく
ブラスバンドのバスの音ばかり聞こえつつはじめて愛を告げられし夏
いつの日か建造物を造りたい春には人が集まるような
メロンに刃刺し込むときに光あり遠い運河にいま橋かかる
つくみず『シメジシミュレーション』
面白い。少女終末旅行と似た会話のテンポ感はあるのだけど、虚しさとか切実さみたいなのは薄くてコメディ要素が濃い。少女週末旅行のチトとユーリらしき人間がしっかりとゲスト出演していのもよい。こういう作品の間でのゆるい繋がりみたいなのをやりがちな作家なのだろうか。メインとなるしめじちゃんとまじめちゃんの関係性はわりとしっかり百合っぽくなっていて、つくみず先生はそういうちゃんとしたきらら的なものがやりたいのかなと思ったりした。
幻覚でトリップしたような画面構成が時々出てきたり、めちゃくちゃやっている感じがある。しかし用いられるナンセンスなユーモアはこの人らしい。あとやはり「さかな」というモチーフが用いられがちなのは真面目に考えた方がいい気がするけど、意味とかないのかも。荻原朔太郎・ツァラトゥストラはかく語りき・トゥルーマンショー・トポロジー、とかとか出てくるモチーフや作品がこの人だな~というのを感じさせてよい。いい意味で衒学的な感じがある。
3巻では立て続けに起こるナンセンスさがカオスを極めており、不穏ささえ感じるようになっていた。何巻続くのかな
高瀬 隼子『おいしいごはんが食べられますように』
芥川賞。読書会の課題として読んだ。変わった三人称の文体が用いられている。嫌いなので作ってくれたマフィンをわざと食べないとか、厄介な人が帰ってうれしいとか、そういうちくちくした嫌な描写が目立つ。自分はそんな小さな仕草を見るだけで不安でたまらなくなるのだけど、こういうのが普通なのかと思って働くのが嫌になった。これを感想として人に述べたところ、そこまで心配しなくていいと言われた。
食事が楽しめない主人公を徹底的に描いている。ケーキを食べている感触をおいしくなさそうに描く手腕などは感心した。私は食事最高!の側なので始終いら立っていたが、最後まで読むとこれは世界と合わない人の話なのだと分かった。そしてそういう相容れない点はみんなが持っているということでもある(ここまで読み取るのは考えすぎかもしれない)。決して体験しえない視点を味わう想像力の駆使、という観点を文学の醍醐味とするならいい作品だと思う。絶対に分からない視点を味わえたので。
年森瑛『N/A』
これも芥川賞。読書会の課題として読んだ。アイデンティティというのは10代にとって今も昔も切実な問題なのだけど、それをコロナやLGBTなど最新の時勢や価値観の横溢する世の中と絡めて描いた作品という印象だった。主人公自身がどの領域にも属したくないと願うように、作品自体も何が正しいかに寄らずありのままを写し取った感じがある。価値観を尊重しようとして、逆に型に嵌めてしまう……みたいなもどかしさもそのまま描写されていて分かる~となっていた。
まどかの身体は、まどかとは関係なく大切にされる何かになった。
押し付けない、詮索しない、寄り添う、尊重する、そういう決まりごとが翼沙を操縦していて、生身の翼沙はどこにもいなかった。
『家族が病に臥せっている人』に向けた言葉で
女子校が舞台だが、私には知りえない世界なのでディティールが興味深かった。Twitterのユーザー名が「信玄餅」だったり、インターネットの描写も細かい。あとはコメダが登場したりと、読書会ではネットミーム(?)から借用した描写の多用が指摘されていた。確かにそうだと思う。インターネットがお好きな方は、とても短いので読んでみてはいかがでしょうか。
稀見理都『エロマンガ表現史』
以前永山薫『エロマンガ・スタディーズ』を読んだのだけど、それと一緒に買っていた本。スタディーズのほうはエロ漫画のジャンルが分かれてきた歴史を通して漫画そのものの歴史も分かる、という感じだった。こちらはより表現に迫っており、想像していた「エロマンガを扱う学問」のイメージには近い。
パラパラめくると資料として膨大なエロ漫画のコマが引用されている時点で既に面白い。黒塗り修正の種類や、乳首の残像を描く種類の分類など、中身もいちいち知っても意味がないような知識ばかりでよかった。とはいえ編集者や作家は真面目にこれらを考えているわけで、このジャンルだからこそ必要な創意工夫で培われる技術や描写があるという点はとても興味深い。
あとはたぶんいちばん例として引用されているの矢吹健太朗『TO LOVEる』だと思う。改めて偉大さが分かった。
小笠原鳥類『小笠原鳥類詩集』
詩集。いちどギブアップしていたのだけど頑張って読み切った。言葉の意味の無さとそこから語感を感じ取るタイプの極致みたいだった。しかし用いられる語句は生物系のものばかりで不思議な感覚に陥った。何回か音読してみると楽しかったので、たまに音読して頭をふにゃふにゃにしたい。
どうすることもできないもの。内臓配線図の裏。烏賊の子供を深海鮫の卵の中からまろばし出でたるを、巨大な肉塊が怒り狂ってこの国唯一の怪獣映画を形成し始める。猫の標本の漂白された皮・河! 猫の耳の中(瓶)。
『標本は生きている』
荻原朔太郎『荻原朔太郎詩集』
おなじく詩集。『シメジシミュレーション』において登場したのと、有名なので通っておくべきだと思って読んだ。いま見返してみるとかなりたくさんの付箋を貼っていたので、それくらいには好きな言葉が多かったのだろう。流石に名作と言われるだけあってよかった。こういう孤独……みたいなのが自分の性にあっているのかもしれない。
「詩は神秘でも象徴でも何でも無い。詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである。」と君は云ふ。
北原白秋『序』
詩は言葉以上の言葉である。
『序』
とんでもない時に春がまつしろの欠伸をする。
『陽春』
すべての娘たちは 寝台の中でたのしげなすすりなきをする
『寝台を求む』
註。「てふ」「てふ」はチョーチョーと読むべからず。蝶の原音は「て・ふ」である。蝶の翼の空気をうつ感覚を音韻に写したものである。
『恐ろしく憂鬱なる』
なまあたらしい人間の皮膚の上で/てんでに春のぽるかを踊るときだ。
『春の芽生』
まだ読んだものはあるのだけど、キリがないのでまた小分けにして日記に書きます。一度にたくさん書くのは労力がいるのでやっぱりだめだ。