nikki_20230114「松浦理英子『最愛の子ども』」

 

 

前回の大阪文フリで人からもらった本を、京都文フリの手前で読み終わった。

 

何についての話なのか分からなかった。少女3人を軸に据えて、その名前のない関係が移り変わっていく様子を描いている。名前のない関係は疑似家族でもあり、同性愛ともとれる。それを通して逆に浮き彫りとなる血の通った家庭の問題、異性間の恋愛についても描いているようでもある。あるいは閉鎖的な学校空間における噂やスクールカースト的な集団の心理を描いてもいる。

 

しかしもっとも特徴的なのは物語があくまで「わたしたち」の妄想である点で、語り手の「わたしたち」は少女3人のことを「わたしたちのファミリー」と呼ぶ。物語で語られる出来事は脳内での想像であることが時折強調されたりする。メタフィクションみたいな構造なので、冒頭の人物紹介あたりはワクワクしていた。戯曲でだんだんと袖から舞台に入ってきて登場人物が明らかになっていくような、本当に戯曲を見ているような出だしだと思った。

 

わたしたちがわたしたちのために語ってきた物語なのだから、必ずそこにわたしたちにとって喜ばしい甘みが見出せるだろう、という期待は揺らぐことなくあった。

 

観測する「わたしたち」と観測される「わたしたちのファミリー」は消費される百合みたいなもので、でもその関係は外野が勝手に決めつけて消費しているだけみたいな比喩かなと思ったけど、3人も自分たちが家族であることを自覚して振舞っているので違うんじゃないかなと思う。

 

「もしかしたらこの先自分をレズビアンだと思う日が来るかもしれないけど、それはもっといろんな経験積んでからのことでしょ。ありがちなことばで今決めつけたくないんだよね。でも、あの人たちは世の中にはレズビアンレズビアンじゃない人の二種類しかいなくて、その二種類がくっきりきれいに分かれるんだと信じてるみたい」

 

とにもかくにも思ったのはこの3人の関係性は決してなんらかの言葉で定義できるものではないし、そもそも人と人とのつながりってある決まった言葉だけでくくり付けようとするのは大変だねということだった。読後感は悪いかと思ったら意外と爽やかで、なんというか不思議な話を読まされたなという気分になった。少女たちの感情を描いているのだけど、そういう一瞬の輝きや尊さというより、より生々しくもぼんやりした輪郭を不思議な語り口で読まされたような感覚がある。

 

「日夏は踊れるもんね」
「でも自己流だから」
すると真汐が言った。
「自己流でいてほしいな。既成のステップなんて憶えないで」
日夏は真汐にだけ向ける例の優しい目をして応えた。
「憶えられないよ、きっと。わたしも器用じゃないから。」

 

「思い出した、日夏が自分のダンスのステップを何て名づけてたか」
「人間の尊厳を踏みにじるステップじゃなかったの?」
「違う」希和子は思い出せた喜びで恍惚としていた。「道なき道を踏みにじり行くステップ、だよ」

 

3人の触れ合いとか、繊細な感じの描写がよかったです。上にあげたここのステップのくだりとか、まだタイトルは咀嚼できてないけど最後の一文とかすきでした。