nikki_20220124「溢れるほどの愛で」

 

 前日の夕方に起きて17時間くらい寝たにもかかわらず、この日も結局夕方に起きた。この日記を書いている25日の深夜は少し回復しているものの、なんとなく気分が沈むフェーズに入っている。生活習慣を戻すことから始めるべきだと思いつつも、ずるずると過ごしてしまいますね。寒いカラだろうか、起きてから買い出しに行こうと思い立ったがだらだらしているうちに日が暮れ、諸々の用事を済ませてから早く(0時くらいに)寝ることにした。この努力もむなしく3時くらいに目が覚めたのだけど、その顛末は明日に書く。

 

 

 

 

 そういえば昨日の日記で「ギター、見よう見まねでコードをじゃかじゃか引くだけのことを6年くらいやっているので「何年くらい弾いているか」みたいなことを聴かれたときに何も言えない。」と書きましたがちょっと盛ったことを謝罪します。

 

 中学くらいのとき、なんとなくギターが欲しいと言っていたら祖父母からクラシックギターが送られてきた。試みに触ったけど、ドレミと簡単なコードしか弾けないまま3年経ち高校生になった。高校で少しずつ独学でコードが抑えられるようになりいまに至るので、「触り続けて6年くらい」が正しい。

 

 実際やった歴でいうと真面目に軽音とかでやった人の1年にも満たないと思ってるし、でもじゃかじゃか弾いたのは4,5年くらいかな、などと考えている。弾き続けているけど目標もないまま完全独学なので長さについては何も言えないし、だからこそ誰かに客観的に判断してほしみがある。社会人になったらギターレッスンに通いたい。

 

 

 


 この日はこちらの日記で初めて見たと書いてあるotomad tributeという合作の、最後のキルミーベイベーパートがよかったのでふいに思い立って元ネタとなったmadを見てみた。(tributeとあるように、名作とされているmadのオマージュ合作である)

 

isitsutbustu-todoke.hatenablog.com

 

nico.ms

 

www.nicovideo.jp


 元ネタはR.M氏の「キルミー」である。これがかなりよくて、というか驚いたのは元となった「キルミー」という曲が全くアニメとは関係ない曲だということだった。SUNNY CAR WASHというバンドの曲であり、調べた限りカヅホ氏の作品を意識したわけではなさそうである。しかし歌詞を見れば見るほどキルミーベイベーっぽさがにじみ出てきてすごいな~となる。

 

 まずサビで「キルミーベイベー」(しかもちゃんとカタカナ表記)を連呼しているし、「バカな生き方をしている/相変わらずなオマエが大好きなんだ」はソーニャ→やすなっぽい、「頭の良すぎるアイツらはほっておこう/俺たちの圧勝なわけで/こんなことを歌うバンドを見て/冷めた顔で頷いたりしてるんだろうね」はまさにふたりでバカなやりとりを続ける作品そのものだったり、冷めた顔で頷くのはソーニャらしさがある。その他にも随所からそれらしさが感じられる。

 

youtu.be

 

 

 

 

 mad自体は原曲不使用、完全に作品中の音だけで構成されている。元の曲が思いっきり歪んだギターなどで荒っぽいロックであるゆえ、こちらのチップチューンらしさを感じる打ち込みアレンジがより映えていて、リスペクトもありつつ作品そのものとして昇華している感じが堪らない。

 

 こう一方的に見出すのはバンド側に失礼な気もするが、こういうオタク・重ね合わせみたいなものはよくある。大して関係ないけれどこれってこの作品のテーマソングだろ、みたいなもの。最近だと安野モヨコ「友達のうた」をレヴュースタァライトの露崎まひるさんに重ねていました。

 

 ちなみにバンド自体は去年の12月くらいに解散したらしい。しかしオルタナティブの3ピースロックバンドっぽいので個人的に掘り下げて聴いていきたいアーティストのリストにいまのところある。

 

 

 

 

 さらに考えたのはこの曲が合作の最後に据えられていることで、「溢れるほどの愛で溺れさせてくれ/溢れるほどの愛を僕に分けてくれ」というサビの歌詞は音madでは…?とまた勝手なオタク・重ね合わせをしていた。自分でいくつか雑に作ってみて分かったが、音madは音楽・映像やデザインの総合芸術であり、それら全てがモチーフへの愛に収束している。そういう意味として溢れるほどの愛で溺れるものとしての体験として音madがある。

 

 音mad、おふざけだけじゃなくて人を泣かすことだってできるレベルの総合芸術なんだなということにこの一年くらいで気づいてから本当にずっと感動し続けている。大して詳しくもない人間があれこれ語ってすみませんという感じたが、豊饒な狂気と愛情の世界…と日々感動しているのでまだまだ見続けるだろう、と思う。おやすみなさい。